紙の重なり
登場人物
浅倉 澪あさくら・みお 古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。
前田征司まえだ・せいじ 元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。
前田理花まえだ・りか 征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。
黒瀬達也くろせ・たつや 島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。
夏目圭介なつめ・けいすけ 鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。
篠宮冬子しのみや・ふゆこ 島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。
曽根警部そね 島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。
記録館へ戻ると、曽根は前田の観測紙を机に広げた。
「交換室の帳面と、見比べてみましょう」
冬子の帳面には、「待て。舟を待て」とある。観測紙の裏側には、いくつかのへこみが残っていた。二つの丸。短い線。そして、「待て」に似た文字。
曽根は紙を重ねず、照明の角度を変えて撮影した。理花は観測紙の繊維を確かめ、冬子の帳面にある紙と比べる。
「紙質は違います」
理花が言った。
「でも、このへこみは、何かを下に置いて、その上から別の紙に書いた跡に見えます」
「同じ言葉を書いた紙を、観測紙の下に敷いていた?」
澪が尋ねた。
「あるいは、観測紙の上に置いていた」
理花は、記録紙の端を見た。
「どちらにしても、誰かが筆圧を写し取ろうとした可能性があります」
曽根は、交換室から持ち帰った帳面の該当頁を机の端に置いた。文字の形は、よく似ている。とくに「待」の右側は、最後の線がわずかに跳ね上がる癖まで同じだった。
「冬子さんの字ですか」
「そう」
「観測紙に残った文字も、あなたが書いたように見えます」
冬子は、へこみをしばらく見つめた。
「私は、あの紙に書いていない」
「この言葉を、記録館で誰かに見せたことは?」
「ない」
「帳面を誰かに貸したことは?」
「ない」
「交換室から持ち出したことは?」
「ない」
冬子の答えは、どれも短かった。
「なら、誰かがあなたの帳面を開いて、文字を写したのかもしれません」
澪が言った。
「でも、帳面は今も交換室にあった」
「ページを写したあと、戻すこともできます」
曽根は、帳面の該当頁を撮影した。次に、観測紙のへこみと、照明の下で形を比べる。
「筆圧の跡が同じかどうかは、詳しく調べます」
「もし同じだったら?」
冬子が尋ねた。
「この観測紙を書いたとき、あなたの帳面がそばにあった可能性が高くなります」
「私が記録館に行ったと言いたいの?」
「まだ、誰が帳面を運んだかは分かりません」
「私は、昨夜は宿にいた」
「あなたがいつ、帳面を見せたのかも分かりません」
曽根は、話をそこで止めた。
冬子は、帳面を見たまま、手を伸ばさなかった。
理花は観測紙の反対側を調べた。紙の端に、別のへこみが見つかる。細い長方形がひとつ、その中央に小さな丸が二つ並んでいた。
「紙を押さえる重しの跡かもしれません」
「文鎮ではない?」
「文鎮なら、もっと角がはっきり残るはずです。これは、底の丸いものを置いたように見える」
澪は、乾燥室の机にあった輪染みを思い出した。コップの底と一致した円。机に残った短い線。観測紙の裏にある二つの丸。
「コップを紙の上に置いて、その上から何かを書いた?」
「それなら、紙に重みをかけた理由があるはずです」
理花は言った。
「記録紙が動かないようにしたのか。あるいは、紙の裏に文字を写すためか」
「前田さんが、自分で書き写した?」
曽根が尋ねた。
「その可能性もあります」
冬子は、帳面を見つめたまま黙っている。
澪は、前田が「正しい時刻を出せる」と言ったことを思い出した。彼が誰かを記録館へ呼び、何かを見せるつもりだったなら、その前に必要な記録を机の上に並べていたのかもしれない。
古い帳面。
観測紙。
二時十一分と二時十七分。
「前田さんは、あの六分間に起きたことを、もう一度記録しようとしていたんでしょうか」
「そうかもしれません」
曽根は、冬子の帳面を証拠袋に入れた。
「この帳面は、一時的に預かります」
冬子は、止めなかった。
彼女の顔から、色が少しずつ引いていく。
「前田さんは、私に何かを話すつもりだったのかもしれない」
「何を?」
澪が聞いた。
「誰が『舟を待て』と言ったのか」
冬子は、帳面から目を離した。
「でも、私は聞かなかった。あの夜、何を待てと言われたのかも、誰が言ったのかも、三十六年間、確かめなかった」
曽根は袋の封を閉じた。
外では潮が戻っていた。記録館の窓に、細かな水滴がつき始めている。
澪は、窓の下端に残った白い粒を見た。
今度の水滴は、乾燥剤の水ではなく、海から来たものだった。




