潮の壁
登場人物
浅倉 澪あさくら・みお 古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。
前田征司まえだ・せいじ 元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。
前田理花まえだ・りか 征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。
黒瀬達也くろせ・たつや 島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。
夏目圭介なつめ・けいすけ 鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。
篠宮冬子しのみや・ふゆこ 島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。
曽根警部そね 島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。
夜、島から出るには、連絡船か、潮の引いた道を使うしかない。
連絡船は運航を終えていた。記録館の裏にある保守通路も、崩れた岩場で途切れている。曽根は、町の測候所から取り寄せた潮位表を広げ、昨夜の水位を確かめた。
「この時間、保守通路は水につかっています」
黒瀬が、地図の線を指した。
「崖下の狭いところは、潮が高いと人が通れません。大人なら胸まで水に入る」
「乾燥室から出られる抜け道ではない、ということですね」
「そうです」
「通った跡も?」
「ありません」
曽根は、裏の換気口で採取した粉を思い出した。あれは乾燥剤の粉で、外から運び込まれたものではない。保守通路を使った証拠にはならなかった。
「昨夜、道が水に覆われたのは何時ですか」
澪が聞いた。
「測候所の表では、九時八分ごろです」
「夏目さんは、その前に町へ渡った」
「宿の時計が八分進んでいたなら、実際に出たのは八時五十分ごろでしょう」
曽根が言った。
「そのあと、島へ戻った形跡はありません」
「船も出ていない」
「はい」
澪は、夏目が町へ渡ったことを思い返した。彼は犯人ではないと決まったわけではない。前田が襲われたのが、彼が島を出る前なら、まだ機会はあった。
けれど、医師が見立てた前田の負傷時刻は、まだ広い範囲にしか絞れていない。もし夜半すぎなら、夏目は島にいなかった。
「前田さんが襲われた時刻は、もっと絞れませんか」
「頭の内出血だけでは難しいそうです」
曽根は答えた。
「医師は、夜のうちとしか言えない。二時十一分か、二時十七分か、それより前かは分からない」
「それでも、潮が閉じたあとなら」
「島にいた人が関わった可能性が高くなる」
曽根は、澪を見た。
「あなたも、昨夜は島にいました」
「宿にいました。十時前には部屋へ戻って、そのまま寝ました」
「誰かが確認していますか」
「いいえ」
澪は、手帳を閉じた。
曽根は続けて、理花と黒瀬にも、夜半の行動を一つずつ確認した。理花は宿の客室で過ごしたと言い、黒瀬は記録館の設備を見たあと、自室に戻ったと言った。冬子は帳場にいた。誰も、他人の行動を確かめてはいなかった。
「結局、島に残った人は全員、犯行ができた可能性がある」
理花が言った。
「そうですね」
曽根は、平らに答えた。
「夏目さんだけは、夜半には町側にいた可能性が高い。でも、それも、記録館を出た時刻が正しければです」
宿の時計は、八分進んでいた。鐘の音も、針が示す時刻とは合わない。夏目が見た八時五十八分を、そのまま信じることはできなかった。
「潮の道を渡った人は、足に海の塩がつく」
澪は、曽根が採取した靴底の塩を思い出した。
「でも、乾燥室の足跡には、海水の成分がなかった」
「そうです。あの足跡は、誰かが部屋の中にあった水で作った可能性が高い」
「外から来た人の跡ではない」
「少なくとも、そう見せるために作られた跡です」
その言葉を聞いて、澪は乾燥室の窓を思い出した。窓の水滴も、足跡と同じ成分だった。海から来た証拠ではなく、島の内側でつけられたもの。
「犯人は、足跡を残して、窓に水をつけた」
「そうかもしれません」
「部屋が密室に見えるように」
「あるいは、誰かが外から入ったように見えるように」
曽根は、机の上に宿の間取り図を置いた。宿から記録館までは、歩いて十五分ほど。潮が引いているあいだなら、町から来ることもできる。しかし、道が水没したあとは、島と町の行き来は止まる。
「誰かが、潮が閉じる前に島へ来て、夜半まで記録館にいた可能性もあります」
「前田さんが呼んだ相手がいたのかもしれない」
理花が言った。
「前田さんは、誰かを待っていた?」
澪は、二時十一分と二時十七分の記録を思い出した。六分のあいだに、何を待つよう指示されたのか。冬子は、舟を待ったと言った。前田は「六分は長すぎた」と言った。
「前田さんが昨夜待っていたのは、昔の記録を知っている人かもしれません」
「その人が、彼を襲った?」
曽根が尋ねた。
澪は、答えなかった。
島に残った人は、彼女自身を含めて四人。誰も、夜半の行動を証明できない。夏目は町へ渡ったと言うが、時計も潮位表も、記録された時刻をそのまま信じさせてはくれなかった。
曽根は、宿の時計の調査を頼んだ。
針を止めた紙片。海水ではない足跡。持ち去られたコップ。消された時刻。
この島では、時間を示すものが、少しずつ別のことを語っていた。




