三人目の名前
登場人物
浅倉 澪あさくら・みお 古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。
前田征司まえだ・せいじ 元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。
前田理花まえだ・りか 征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。
黒瀬達也くろせ・たつや 島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。
夏目圭介なつめ・けいすけ 鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。
篠宮冬子しのみや・ふゆこ 島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。
曽根警部そね 島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。
石碑に刻まれた三人目の名前は、町役場の古い戸籍記録にあった。
曽根は、その頁を澪たちに見せた。そこには、高潮の日に亡くなった三人の年齢と住所が記されている。
黒瀬文江。前田志乃。藤井健。
澪は、二番目の名前を読み返した。
「前田志乃さんは、征司さんの親族ですか」
理花は、すぐには答えなかった。
「母です」
曽根が、記録から目を上げた。
「前田さんの妹さん?」
「そうです。私が五歳のときに亡くなりました」
澪は、理花を見た。これまで彼女は、叔父の姪として紹介されていた。母親が三十六年前の高潮で亡くなったことは、一度も話していなかった。
「前田さんは、お母さんのことを話していましたか」
「ほとんど」
「亡くなった理由については?」
「鐘が鳴る前に、隣家の子を迎えに行った。叔父はそう言っていました」
「記録には、警報を聞いてから避難を始めたとある」
「はい」
理花は石碑の三つの名前を見た。
「母は、鐘が鳴る前に家を出たんです。記録と合いません」
「叔父さんは、その違いを知っていた?」
「知っていたと思います」
「なぜ、今まで話さなかったんですか」
曽根の質問に、理花はしばらく黙っていた。
「私が聞くたびに、叔父は『記録は正確ではない』と言いました。でも、何が違うのかは教えてくれなかった」
「昨夜、前田さんから何か聞きましたか」
「いいえ」
「叔父さんが見せると言ったものは、お母さんに関係していると思いますか」
理花は、目を伏せた。
「そうかもしれません」
「そのために、記録館へ戻った?」
「昨夜は宿にいました」
「確認できる人はいますか」
「いません」
曽根は、もう一度、表情を変えずに聞いた。
「前田さんを恨んでいましたか」
「恨んでいません」
「真実を隠したことは?」
「それは……」
理花は言葉を切った。
「知りたかった。母が何をしようとしていたのか。なぜ叔父が記録を直さなかったのか。でも、恨んでいたかどうかは、自分でも分かりません」
彼女は、指先についた紙の繊維を見た。
「叔父は、私を育ててくれました。だから、母のことを話せなかったのかもしれない」
「前田さんが亡くなった夜、あなたは乾燥室へ入っていない?」
「入っていません」
「コップを持ち出してもいない?」
「持ち出していません」
曽根は、理花の答えを記録した。
「あなたは、紙を扱う仕事をしていた。消された筆圧も、紙片の切り方も知っている」
「それは、仕事です」
「もちろんです」
理花の顔が、かすかにこわばった。
「私が紙に触れられるから、犯人だと考えるんですか」
「可能性を確かめています」
「なら、私だけでなく、記録館に出入りした人全員を調べてください」
曽根は、返事をしなかった。
戸籍記録の横には、高潮の被害報告が綴じられていた。前田志乃の名前の下に、短い記述がある。
警報を受けて避難中、行方不明。翌朝、湾内にて発見。
しかし、電話交換室の帳面によれば、鐘が鳴ったのは二時十七分。潮位が警戒線を越えたのは二時十一分。志乃が家を出たのが鐘より前なら、彼女が警報を受けたという記録は正確ではない。
「お母さんは、誰かを助けに行ったんでしょうか」
澪が聞くと、理花はうなずいた。
「叔父は、そう言っていました」
「誰を?」
「名前は教えてくれませんでした」
理花は、母の名前が刻まれた石碑を見つめた。
「叔父が亡くなる前に、私に何か伝えようとしていたのなら、もう聞くことはできない」
記録館の奥で、時計の針がかすかに鳴った。
二時十七分ではない。
乾燥室の止まった時計は、箱に入れられたままだった。音がしたのは、誰も触れていないはずの古い潮位計だった。




