学校がない
村へ向かう途中、凛は何度もファルコンを止めた。
「あっちの畑は?」
「小麦です」
「その隣」
「豆です」
「向こうの木は?」
「果実を取ります」
「何の?」
「名前を言って分かりますか?」
「……たぶん分かんない」
リゲルが笑う。
「何がおかしいの」
「リンは、何でも知りたがりますね」
「知らないところに来たんだから当たり前でしょ」
『落ち着きがないだけだ』
上空からシロイチ。
「うるさい!」
『空まで聞こえるぞ!』
「だったらもっと高く飛んで!」
『命令するな!』
「偵察して!」
『今している!』
「働いてるじゃん」
『しまった!』
ジェネが吹き出した。
「仲がよろしいですね」
「どこが?」
『どこがだ!』
声が重なった。
今度はベテルまで笑った。
「ほら、ベテルも笑った!」
「笑っておりません」
「絶対笑った」
こんなやり取りをしながら進む。
やがて、昨日までに見た村より少し大きな集落へ着いた。
「ここは?」
「領内では大きな方です」
「何人くらい?」
「周囲の農家を合わせて、五百人ほどでしょうか」
「五百」
凛は村を眺める。
家。
畑。
共同の井戸。
作物を置く広場。
簡単な作業小屋。
「学校は?」
「ありません」
「五百人いても?」
「はい」
「子供何人くらい?」
「そこまでは」
「人口統計ないの?」
「じんこうとうけい?」
「何歳が何人いるとか」
「調べれば分かります」
「普段は調べない?」
「必要なら」
「出生数は?」
「しゅっせい?」
「一年に子供が何人くらい生まれるか」
「村の者なら知っているでしょう」
「死亡者数」
「それも」
「国全体では?」
リゲルが黙った。
「……分からない?」
「おおよそなら」
「一万人っていうのも?」
「およそです」
「どれくらいの誤差?」
「千か二千ほどは」
「二割違うじゃん!」
「何か問題が?」
「大問題だよ!」
「そうなのですか?」
「学校作るにしても、子供が何人いるか分かんないと――」
そこまで言って、凛は止まった。
「私、学校作るって決めたんだっけ」
「かなり前から言っています」
「そうだっけ」
「こちらへ来た初日から」
「まだ十日ちょっとなのに、ずいぶん昔に感じるなあ」
*
村へ入ると、人々が集まってきた。
「リゲル様」
「お方様」
凛は、まだその呼び名に慣れない。
頭を下げられるたびに、自分まで頭を下げそうになる。
「普通にしてください」
「そう言われましても」
村長らしい老人が困る。
「私、この国のこと知らないから、今日は教えてもらいに来ただけです」
「お方様が?」
「はい」
「我々から?」
「はい」
老人がリゲルを見る。
リゲルは頷いた。
「リンの好きなように」
「ありがとうございます」
老人はますます困った顔をした。
「何をお話しすれば」
「何でも。畑のこととか、困ってることとか」
「困っていること……」
老人は考え込んだ。
「今年は水が少し足りません」
「水」
「上の水路が崩れまして」
「直せない?」
「人手があれば」
凛の頭が動く。
「シロイチ」
『嫌だ!』
上空から即答。
「まだ何も言ってない!」
『どうせ働けだろう!』
「鳥で水路直せる?」
『直せるか!』
「だよね」
「何の会話をしているのです?」
老人が空を見上げている。
「気にしないでください」
「気になります」
当然だ。
獣。
魔。
橋。
畑。
病気。
話を聞いていると、問題はいくつも出てくる。
だが、凛が想像していたような、誰もが今日の食べ物にも困っている村ではない。
「貧しいって何だろ」
「何か?」
「ううん」
比較すれば貧しい。
ミルンという隣国には、もっと物があるらしい。
でも、この村にはこの村の生活がある。
そのとき。
子供が一人、籠を抱えて歩いていくのが見えた。
女の子。
十歳前後。
籠には野菜。
「こんにちは」
凛が声をかける。
少女が止まった。
「……こんにちは」
「それ、どこ持っていくの?」
「家」
「畑から?」
「うん」
少女が凛の顔を見る。
「お方様?」
「そうらしい」
「らしい?」
「まだ慣れてないの」
少女が少し笑った。
「名前は?」
「マイ」
「マイちゃん」
籠はかなり重そうだ。
「持とうか?」
「大丈夫」
「でも」
「毎日持ってるから」
そう言って歩き出す。
凛も隣を歩いた。
「畑の手伝い?」
「うん」
「毎日?」
「うん」
「お父さんとお母さんと?」
マイの表情が少し変わった。
「お母さんと、おじいちゃん」
「お父さんは?」
「ミルン」
「外国?」
「働きに行ってる」
凛は足を止めかけた。
「出稼ぎ?」
「でかせぎ?」
「向こうで働いて、お金を持って帰る?」
「うん」
「どれくらい帰ってこないの?」
「長いと半年」
「半年……」
マイは平然としている。
珍しいことではないのだろう。
「畑だけじゃ生活できない?」
「できるよ」
「じゃあどうして?」
「お金がいるから」
「何に?」
「服とか。道具とか。塩とか」
自分たちで作れないものを買う。
そのための現金収入。
「葡萄は?」
「作ってる」
「売れない?」
「少し」
「腐ったやつ出る?」
「いっぱい」
凛の足が止まった。
「いっぱい?」
「うん。今年多いよ」
「見せてもらっていい?」
「いいけど」
話が思わぬ方向へ進んだ。
*
マイの家。
小さな家だった。
裏に畑。
その先に葡萄。
「これ」
マイが指した。
「うわ」
凛の目が輝く。
同じだ。
先日見つけたものとよく似ている。
萎びた葡萄。
灰色がかった表面。
「毎年出る?」
「出るよ」
「捨てる?」
「うん」
「もったいない!」
思わず大声を出した。
マイがびくっとする。
「あ、ごめん」
「それ、使えるの?」
「たぶん」
「食べる?」
「お酒にできるかもしれない」
「お酒?」
奥から女性が出てきた。
「マイ?」
母親らしい。
凛たちを見る。
そして固まった。
「リ、リゲル様!」
「お邪魔しています」
「お方様まで!」
「ごめんなさい、勝手に」
凛が頭を下げると、女性がさらに慌てる。
「頭をお上げください!」
「どっちが?」
「お方様が!」
「もうこれ面倒だなあ」
リゲルが笑った。
「慣れてください」
「無理」
*
マイの母親から話を聞いた。
葡萄は昔から作っている。
生のまま食べる。
乾かす。
一部は他の村や町へ売る。
だが、傷んだものは捨てる。
「この葡萄、少し分けてもらえます?」
「こんなものでよろしければ」
「ただではもらわない」
「え?」
「実験に使いたいから」
「捨てるものです」
「今はね」
凛は葡萄を見た。
「もし使えるものになったら、そのときはちゃんと買う」
「こんなものを?」
「まだ分かんないけど」
マイが凛を見上げる。
「売れるの?」
「それをこれから試す」
「売れたら、お父さん帰ってくる?」
凛は答えかけて、止まった。
言えない。
まだ何一つ成功していない。
たとえ葡萄が売れても、父親がどうするかは父親が決めることだ。
「それは分からない」
「そっか」
「でも」
凛はしゃがみ、マイと目線を合わせた。
「今より少し、おうちで稼げるようになるかもしれない」
「ほんと?」
「かもしれない、だよ」
「うん」
「約束はできない」
「うん」
期待させる。
簡単だ。
責任を取るのは難しい。
役所でも嫌というほど見てきた。
「まず試す」
それだけを約束した。
*
帰り道。
凛はファルコンの上で考えていた。
「リゲル」
「はい」
「学校のこと」
「はい」
「私、ちょっと簡単に考えてた」
「そうなのですか?」
「学校作れば子供が来ると思ってた」
でも。
マイは毎日畑で働いている。
遊びで手伝っているのではない。
家族の働き手だ。
「学校作っても」
凛は言う。
「子供が学校へ行ったら、その分誰かが働かなきゃいけない」
「そうですね」
「家が困る」
「はい」
「だから来られない」
「そうなる家もあるでしょう」
校舎。
教師。
本。
そんなものばかり考えていた。
もっと手前に問題があった。
「子供の時間を作らないと駄目なんだ」
「時間?」
「うん」
畑仕事。
家の仕事。
それを減らす。
あるいは、大人だけで暮らしを支えられるようにする。
「学校って、建物を作るところからじゃないんだね」
「では、どこから?」
凛は振り返った。
遠くなっていくマイの家。
葡萄畑。
「子供が学校へ行っても困らない暮らしを作るところから」
言ってみると、とんでもなく大きな話だった。
「……学校一個作るだけなのに」
「一個では済みそうにありませんね」
「言わないで」
それでも。
やることは少し見えた。
まず、マイたちが毎日使っている時間を知る。
そして、家に必要な金を知る。
その二つを少しでも軽くできれば。
学校へつながる。
「シロイチ!」
『何だ!』
「明日、草取りもう一回やるよ!」
『嫌だ!』
「今度はちゃんと考える!」
『前も聞いたぞ!』
「学校のため!」
『私には関係ない!』
「お肉増やす!」
『……どれくらい』
「食いついた!」
ジェネが笑う。
リゲルも笑う。
凛も笑った。
学校を作る。
そのために、まず畑の草を取る。
昨日までの凛なら、
自分でも何を言っているのか分からなかっただろう。
けれど今は。
**マイが父親の手紙を自分で読める日まで、全部が一本の道につながっているように思えた。**




