畑の少女
三日後。
「多すぎる」
凛は頭を抱えた。
館の中庭。
籠。
籠。
籠。
全部、葡萄。
「シロイチ」
『何だ』
「私、調べてって言ったよね」
『調べた』
「持ってきてとは言ってない」
『村の者が、お方様が欲しがっていると聞いて持ってきたのだ』
「誰がそんなこと言ったの!」
『知らん』
ジェネが目をそらした。
「ジェネ?」
「私は、お方様が腐った葡萄を集めていると」
「それ!」
「事実では?」
「事実だけど!」
噂というものは怖い。
領主夫人が腐った葡萄を欲しがっている。
それだけが領内を走ったらしい。
「どうしよう」
「酒を造ればよろしいのでは?」
リゲルは簡単に言う。
「こんな量、一度に試せないよ」
「では捨てますか?」
「それはもったいない!」
「なら」
「うーん」
凛は籠を眺める。
「分けよう」
「何を?」
「状態」
よく萎びたもの。
まだ水分が多いもの。
明らかに腐敗しているもの。
傷のあるもの。
「全部同じじゃない」
これなら実験材料として使える。
「でも」
凛は顔を上げる。
「持ってきた人、分かる?」
「おおよそは」
「記録して」
「なぜです?」
「もし使えたら、後で払う」
「捨てるものですよ?」
「今はね」
凛は籠の一つから葡萄を取った。
「価値がないから捨ててる。でも価値が出たら話が変わる」
「お方様なら、差し出す者も多いでしょう」
ベテルだった。
いつの間にか中庭へ来ている。
「それが嫌なの」
「なぜです?」
「領主夫人が欲しいって言ったら、断れないでしょ」
「そうでしょうね」
「それじゃ取ってるのと同じ」
「本人が喜んで差し出しても?」
「本当に喜んでるか分かんない」
ベテルは凛を見た。
「変わったお方ですね」
「よく言われる」
*
葡萄酒の二度目の試作は、一度目よりうまくいった。
「……飲める」
凛は小さな器を見た。
「美味しい?」
ジェネが尋ねる。
「飲める」
「同じですか?」
「全然違う」
「どう違うのです?」
「美味しいとは言ってない」
「では」
「まずくはない」
「ややこしいですね」
香り。
甘味。
酸味。
まだ雑味がある。
でも。
「前より全然いい」
「売れますか?」
「まだ無理」
「厳しいですね」
「最初にまずいもの売ったら終わりだよ」
アンジェルには葡萄酒がない。
だからこそ、最初が大事だ。
「もう一回」
「また?」
「次はこの組み合わせ」
凛は記録した木片を並べる。
洗浄。
葡萄の状態。
置いた場所。
日数。
「紙欲しいなあ」
「木では駄目ですか?」
「かさばる」
「紙はミルンから買えます」
「高い?」
「安くはありません」
学校でも紙は必要になる。
凛は木片を見た。
葡萄酒が売れれば、葡萄農家の収入になる。
その金で紙を買えるかもしれない。
本も。
教師への支払いも。
「やっぱり、ここも学校につながるんだ」
「何がです?」
「こっちの話」
*
午後。
凛はマイの家を訪ねた。
「こんにちは!」
「お方様!」
母親がまた慌てる。
「もう慣れてください」
「無理です!」
「私もお方様って呼ばれるの慣れないから、お互い様か」
マイは畑にいた。
祖父と一緒に葡萄の手入れをしている。
「マイ!」
「あ、お方様」
「みんなそれだなあ」
マイが笑った。
「学校の話なんだけど」
「学校?」
「前に話した、字とか計算を習うところ」
「うん」
「もしできたら行きたい?」
マイはすぐ答えなかった。
「どうしたの?」
「行っていいなら」
「行きたい?」
「うん」
「何を勉強したい?」
「分かんない」
「字?」
「もっと読めるようになりたい」
「本?」
「本はない」
「あ、そっか」
ここにも問題がある。
学校を作る。
本がいる。
紙がいる。
先生がいる。
時間がいる。
金がいる。
「計算は?」
「できるよ」
「本当?」
「うん」
凛は適当な問題を出した。
「葡萄が十個あります」
「うん」
「三個食べました」
「七個」
「早い」
「それくらい分かるよ」
「じゃあ十個を三人で分ける」
「三個ずつ。ひとつ余る」
「おお」
「馬鹿にしてる?」
「してない!」
マイが少しむっとした。
「ごめん」
「畑で数えるもん」
「なるほど」
学校へ行っていない。
だから何も知らない。
また自分が勝手にそう考えかけていた。
生活の中で必要なことは、生活の中で覚える。
「じゃあ字をもっと読みたいのは何で?」
「手紙」
「手紙?」
「お父さんから来るから」
凛は黙った。
「お母さんが読んでくれるけど」
「自分で読みたい?」
「うん」
「返事は?」
「お母さんに書いてもらう」
「自分で書きたい?」
「うん」
学校を作る理由。
立派なものはいらないのかもしれない。
父親から届く手紙を、自分で読みたい。
返事を書きたい。
それだけで十分だ。
「作る」
「何を?」
「学校」
「本当?」
「うん」
言い切ってから。
「あ」
凛は口を押さえた。
また約束した。
「ただし」
「うん」
「すぐは無理」
「いつ?」
「それを今考えてる」
「じゃあ、待ってる」
マイは笑った。
その顔を見て、凛は逃げられなくなった。
*
帰り際。
マイの祖父が凛を呼び止めた。
「お方様」
「はい」
「先日の葡萄ですが」
「あ」
「何かになりましたか」
「お酒になった」
「本当に?」
「まだ売れるほどじゃないけど」
「腐ったものが?」
「腐り方が特別なんだと思う」
老人は葡萄畑を見る。
「昔から、霧の多い年にはあれが増えましてな」
「毎年同じ場所?」
「いや」
「朝霧が出やすいところは?」
「川沿いが多い」
「午後は乾く?」
「晴れれば」
凛の頭の中で条件が重なる。
湿気。
菌。
その後の乾燥。
「やっぱり」
偶然ではないかもしれない。
「おじいさん」
「はい」
「今年、捨てないで」
「腐った葡萄を?」
「全部じゃなくていい。私が使えそうなものを選ぶ」
「それで?」
「もし酒が売れたら、その葡萄を買う」
「買う?」
「うん」
老人が目を丸くした。
「捨てていたものを?」
「使えるなら」
「しかし」
「まだ約束はできない」
凛はマイを見る。
「売れる酒ができたら、ちゃんと買う」
老人はしばらく黙っていた。
そして頭を下げた。
「ありがとうございます」
「まだ何もしてないよ」
「それでもです」
「期待しすぎないでね」
「はい」
「本当に」
「分かりました」
たぶん分かっていない。
マイも嬉しそうにしている。
怖い。
失敗できない。
そう思った。
同時に。
やってみたいとも思った。
*
帰り道。
「リゲル」
「はい」
「マイのお父さん、帰ってこられるかな」
「分かりません」
「だよね」
「葡萄の収入が増えても、ミルンで働く方が稼げるなら、働き続けるかもしれません」
「うん」
凛は少しだけ落ち込んだ。
「でも」
リゲルが続ける。
「行かなければ暮らせないのと、行くか残るか自分で決められるのは違うでしょう」
「……うん」
凛はマイの家を振り返った。
父親が帰るかどうか。
それは父親が決める。
マイが将来、畑を継ぐかどうか。
それもまだ分からない。
今はただ。
父親からの手紙を、自分で読みたい少女がいる。
そのためには学校がいる。
学校へ行くには時間がいる。
その時間を作るには、家族の暮らしにも余裕がいる。
そして。
捨てられている葡萄が、その一助になるかもしれない。
「まずワインだな」
「学校では?」
「学校のためのワイン」
「ずいぶん遠回りですね」
「ほんとだよ」
凛は笑った。
けれど。
遠回りに見えるその道が、
今は一番確かな道に思えた。




