私結婚します
アンジェルへ来て十日ほどたった。
「……慣れてきた」
朝。
凛は窓を開けながら呟いた。
鳥の声。
畑。
遠くに山。
自動車の音はない。
電車もない。
スマートフォンもない。
最初の二日は、無意識にポケットへ手を入れていた。
三日目くらいから減った。
五日目には、時間を確認しようとしてスマートフォンを探すこともなくなった。
そして十日目。
「なくても生きられるもんだなあ」
「何がです?」
「うわ!」
振り返る。
ジェネがいた。
「いつ入ったの!」
「今です」
「ノックしてよ!」
「しました」
「聞こえなかった」
「では私の責任ではありません」
「そうだけど」
ジェネは着替えを持っている。
「朝食の後、葡萄畑へ行かれるのでしょう?」
「うん」
「こちらを」
「ありがとう」
「それと」
「なに?」
「リゲル様がお話があるそうです」
「何の?」
「存じません」
「結婚かな」
「おそらく」
凛の手が止まった。
「やっぱり?」
「十日たちましたから」
「まだ十日だよ」
「十日も、です」
感覚が違う。
「嫌なのですか?」
「嫌っていうか」
凛はベッドへ腰を下ろした。
「よく分かんない」
「何が?」
「結婚」
「リゲル様がお嫌いですか?」
「嫌いじゃない」
「では」
「だからって結婚する?」
「しますよ」
「するの?」
「アンジェルでは」
ジェネが当然のように答える。
「好きでもない相手と結婚する者もおります」
「それは地球にもいたけど」
「リゲル様はお嫌いではない」
「うん」
「リゲル様もリン様を気に入っておられる」
「そうなの?」
「気づいていないのですか?」
「全然」
ジェネがため息をついた。
「鈍いですね」
「失礼だな」
「毎日リン様の話をなさっていますよ」
「何て?」
「今日は葡萄がどうだった。畑で何を見つけた。変なことを言っていた」
「最後おかしくない?」
「昨日は、木片が足りないと言っていた、と」
「記録用ね」
「一昨日は、パンばかりで飽きたと言っていた、と」
「だって本当だもん」
「その前は」
「もういい」
恥ずかしくなってきた。
「とにかく」
ジェネは着替えを置いた。
「話くらい聞いてあげてください」
「分かった」
「逃げないで」
「逃げないよ!」
*
朝食の席。
リゲルがいる。
「おはようございます」
「おはよう」
いつもと同じ。
パン。
野菜。
チーズ。
卵。
「……米食べたい」
「またですか」
「毎日思ってる」
「そんなに美味しいものなのですか?」
「毎日食べても飽きない」
「パンもそうですが」
「それは文化の違い」
パンをちぎる。
リゲルがこちらを見ている。
「何?」
「いえ」
「話あるんでしょ」
「ジェネですか」
「うん」
「口が軽いですね」
「内容までは聞いてない」
「そうですか」
リゲルが姿勢を正した。
凛もつられて背筋を伸ばす。
「リン」
「はい」
「こちらへ来て十日になります」
「はい」
「暮らしてみて、どうですか?」
「不便」
「そうですか」
「でも嫌いじゃない」
「それはよかった」
「葡萄も面白いし」
「はい」
「畑も見たい」
「はい」
「あと学校」
「学校?」
「まだ考えてる」
「そうでしたね」
凛はパンを置いた。
「で?」
「はい」
「結婚?」
「……はい」
リゲルが少し緊張している。
初めて見る顔だった。
それに気づくと、逆に凛の緊張が少し抜けた。
「もう一度、正式にお願いします」
「正式に」
リゲルが立った。
凛の前へ来る。
片膝をつく。
「え、そういう感じ?」
「静かにしてください」
「はい」
怒られた。
「リン」
「はい」
「私の妻になっていただけませんか」
短い。
指輪もない。
花もない。
気の利いた言葉もない。
「理由は?」
凛は尋ねた。
リゲルが少し困った。
「理由?」
「最初は、妻が必要だからって言った」
「はい」
「今もそれだけ?」
意地悪な質問だと思う。
でも聞きたかった。
リゲルは少し考えた。
「最初は、そうでした」
「うん」
「神から候補を示され、タムを通じてあなたへお願いしました」
「うん」
「ですが今は」
リゲルが凛を見る。
「あなたに、ここにいてほしいと思っています」
凛は黙った。
「理由になっていますか?」
「……ずるいな」
「なぜです?」
「そういう声で言うから」
「声?」
「こっちの話」
タム。
やっぱり声だけは大当たりだ。
「私、たぶん普通の奥さんにならないよ」
「普通とは?」
「分かんないけど」
凛は指を折る。
「畑へ行く」
「はい」
「葡萄潰す」
「はい」
「学校作るかもしれない」
「はい」
「変なこと始めるかも」
「すでに始めています」
「そう?」
「はい」
「失敗もする」
「それもすでに」
「葡萄酒のこと?」
「はい」
「結構言うなあ」
凛は笑った。
「それでも?」
「お願いします」
「後悔しても知らないよ」
「しないと思います」
「たぶん?」
「たぶん」
「そこは言い切って!」
二人で笑った。
凛は息を吸った。
結婚。
地球にいたころ、ほとんど考えたことがなかった。
恋愛する暇もなかった。
仕事。
家。
仕事。
休日は寝る。
たまに友人と会う。
そのうち誰かと。
そんなふうに漠然と思っていた。
その「そのうち」が、
まさか死んだ後。
異世界。
知り合って十日の男になるとは思わなかった。
「一個だけ」
「はい」
「私、あなたを好きかどうか、まだ分からない」
「はい」
「それでもいい?」
「はい」
即答だった。
「リゲルは?」
「何がです?」
「私のこと好き?」
今度は止まった。
「そこ止まるんだ!」
「いえ」
「正直に」
「好ましく思っています」
「役所の答弁みたい」
「やくしょ?」
「何でもない」
でも、それくらいでいいのかもしれない。
燃え上がるような恋。
運命。
そんなものはない。
ただ。
一緒にいて嫌ではない。
話を聞いてくれる。
笑える。
自分を閉じ込めようとしない。
そして。
ここへ来て十日。
凛は一度も、
東京の部屋へ帰りたいと思わなかった。
「分かった」
凛はリゲルへ手を差し出した。
「私、結婚します」
リゲルがその手を取る。
「ありがとうございます」
「こちらこそ?」
「なぜ疑問形なのです?」
「結婚の挨拶って何言うんだっけ」
「私に聞かれても」
「リゲルも初めて?」
「当然でしょう!」
「あはは」
笑った。
不思議だった。
人生で一度しかないかもしれない決断なのに。
思っていたより、
ずっと普通だった。
*
結婚式は三日後になった。
「早くない?」
「何を待つのです?」
クルムという女性に言われた。
「いや、準備とか」
「大げさなものではありません」
クルムは館で働く女性たちをまとめている。
四十歳前後。
落ち着いた雰囲気で、凛がこちらの習慣を知らないことにも驚かない。
「服は?」
「用意します」
「招待客」
「領内の者すべてを呼ぶわけにはまいりません」
「そりゃ一万人いるもんね」
「村の代表と、館の者たちです」
「披露宴は?」
「ひろうえん?」
「いいです」
本当に文化が違う。
「結婚すると何か変わる?」
「リン様が正式にお方様になります」
「それだけ?」
「領主夫人としての役目も」
「やっぱり仕事あるじゃん!」
クルムが笑った。
「何もしなくても構いませんよ」
「本当?」
「リゲル様がお許しになれば」
「じゃあ昼寝できる?」
「できます」
「よかった」
「なさるのですか?」
「たぶん」
クルムが微笑む。
「なさらないと思います」
「なんでみんなそう言うの」
*
式の日。
凛は白を基調にした長い衣装を着せられた。
「重い」
「動かないでください」
「ジェネ、これ必要?」
「必要です」
「畑行けない」
「今日くらい畑を忘れてください」
「葡萄の発酵が」
「モモ――ではなく、まだモモはいませんので、畑の者に見てもらっています」
「今なんか変なこと言わなかった?」
「何も」
ジェネが妙な顔をした気がしたが、凛は気にしないことにした。
「髪、これでいい?」
「はい」
「化粧薄くない?」
「けしょう?」
「あ、ない?」
「顔に色を?」
「やっぱいい」
鏡らしき磨かれた金属を見る。
自分なのに、自分ではないような姿。
「お姫様っぽい」
「領主夫人です」
「今日くらい言わせてよ」
外へ出る。
小さな神殿。
人々。
花。
リゲルが待っている。
「お」
凛は思わず止まった。
「どうしました?」
ジェネが尋ねる。
「リゲル、今日ちょっと格好いい」
「普段は?」
「そこそこ」
「本人には言わないでください」
「言わないよ」
神殿へ進む。
こちらの結婚式は簡単だった。
神へ報告する。
二人が互いに生涯を支えると誓う。
それだけ。
神官の長い話もない。
ありがたい。
「リン」
「はい」
「この者を伴侶として認めますか」
神殿を守る老人が尋ねる。
凛はリゲルを見る。
リゲルもこちらを見る。
「認めます」
「リゲル」
「はい」
「この者を伴侶として認めますか」
「認めます」
「では神の前に、二人の婚姻は結ばれました」
「……終わり?」
凛が小声で聞く。
「終わりです」
リゲルも小声で答えた。
「早いね」
「不満ですか?」
「ううん。長いよりいい」
外から歓声が聞こえた。
神殿を出る。
「お方様!」
人々が頭を下げる。
凛は慌てた。
「頭上げて!」
皆が笑う。
「今日から本当にお方様ですね」
ジェネが言う。
「そうみたい」
まだ実感はない。
佐々木凛。
二十五歳。
昨日まで――正確には十数日前まで国家公務員。
今は。
異世界の領主夫人。
「人生分かんないもんだなあ」
*
問題は夜だった。
「……ねえ」
「はい」
寝室。
ベッド。
一つ。
凛は腕を組んだ。
「ベッド一個なんだけど」
「夫婦ですから」
「そうだけど」
「別にしますか?」
リゲルが普通に尋ねた。
「できるの?」
「もちろん」
「……じゃあ」
凛は考える。
別々。
それも変な気がする。
結婚した。
夫婦。
「いや」
首を振った。
「このままでいい」
「分かりました」
「ただし」
「はい」
「今日は寝るだけ」
「もちろんです」
即答。
「そこは少し残念そうにしてもいいんじゃない?」
「どちらなのです!」
「あはは」
凛はベッドへ入った。
リゲルも反対側へ。
妙に広い。
でも相手がいると思うと狭く感じる。
「ねえ」
「はい」
「眠れる?」
「たぶん」
「私も」
沈黙。
「リゲル」
「はい」
「私、いい奥さんになる自信ない」
「私も、いい夫になる自信はありません」
「じゃあお互い様か」
「はい」
「よろしく」
「こちらこそ」
少し安心した。
目を閉じる。
そのとき。
鐘が鳴った。
カーン。
カーン。
カーン。
「何?」
リゲルが飛び起きた。
さっきまでの穏やかな顔が消える。
「魔です」
「魔?」
廊下から叫び声。
「リゲル様!」
ジェネ。
「領内へ魔が侵入しました!」
リゲルが剣を取る。
凛も起きた。
「ちょっと待って」
「リンはここに」
「魔って何!」
「説明は後で!」
「今日結婚したばっかりだよ!」
「だから?」
「新婚初日に襲ってくる!?」
「魔に言ってください!」
リゲルが部屋を飛び出す。
「私も行く!」
「リン!」
凛はその後を追った。
優雅な新婚生活。
その夢は、
**結婚式当日の夜に早くも崩壊した。**




