↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/40

腐った葡萄?

「まず確認」


 翌朝。


 凛は机の前に座っていた。


「私は領主夫人ではありません」


「はい」


 リゲルが答える。


「まだ結婚すると決めてません」


「はい」


「だから命令する権限もありません」


「はい」


「なのに」


 凛は机の上を見る。


 葡萄。


 木の桶。


 布。


 小さな壺。


 そして数人の人間。


「なんでこうなったの?」


「リンが試してみたいと言ったので」


「言ったけど!」


「用意しました」


「仕事早いね!」


「ありがとうございます」


「褒めてない!」


 リゲルの横では、一人の女性が笑いを堪えている。


 昨日から何度か見かけた。


 二十代半ばくらい。


 動きやすそうな服装。


 腰に剣。


「ところで」


 凛は彼女を見る。


「あなた誰?」


「ジェネと申します」


「ジェネさん」


「呼び捨てで結構です」


「じゃあジェネ」


「はい」


「何する人?」


「護衛です」


「誰の?」


「お方様の」


「まだ違う!」


 ジェネが笑った。


「リゲル様から、リン様をお守りするよう命じられました」


「リンでいいよ」


「できません」


「なんで?」


「身分がありますので」


「まだ結婚してない」


「予定ですから」


「予定で身分がつくの?」


「つきます」


「面倒くさい世界だなあ」


 リゲルが小さく咳払いした。


「聞こえています」


「聞かせた」


「そうですか」


 凛は葡萄へ向き直った。


「で、これ」


 昨日の貴腐らしき葡萄。


「本当に使っていいの?」


「どうせ捨てるものです」


 畑の持ち主も来ている。


「駄目になったものなら、いくらでも」


「それ、まだ決めつけないでね」


 凛は一房取る。


「たぶん貴腐葡萄。でも、地球と同じ菌なのかは分からない」


「きん?」


「ものすごく小さい生き物みたいなもの」


「見えないのですか?」


「普通は」


「魔ですか?」


「違う……と思う」


「では精霊?」


「それも違う」


「見えないのに生きている?」


「いるんだよ」


 説明が難しい。


 顕微鏡もない。


「とにかく」


 凛は手を叩いた。


「少量で試します」


「大量には造らないのですか?」


 リゲルが尋ねる。


「いきなりやって失敗したら全部無駄になるでしょ」


「なるほど」


「それから、条件を変える」


「条件?」


「普通の葡萄。これ。混ぜたもの」


 三種類。


「できれば容器もいくつか」


「なぜ?」


「何がうまくいったのか分からなくなるから」


 凛は木片を手に取った。


 紙が少ないので、記録は木片へ刻む。


「日付」


「ひづけ?」


「あ、この世界の日付分かんない」


 いきなり躓いた。


「今日は第三月の十二日です」


「月に名前ないの?」


「第三月です」


「一月、二月、三月?」


「第一月、第二月、第三月」


「そのまんまだ」


「分かりやすいでしょう?」


「まあ」


 暦の問題は後回し。


「第三月十二日。天気」


「晴れです」


「気温」


「きおん?」


「……これも測れない」


 温度計がない。


「暑い、普通、寒いでいいか」


 農水省時代の同僚が見たら頭を抱えそうな記録方法だ。


「道具がないって大変」


「何が必要なのです?」


「いっぱい」


「作れますか?」


「作り方知らないものの方が多い」


 リゲルが意外そうな顔をした。


「リンの世界の知識があれば、何でも作れるのかと思っていました」


「無理無理」


 凛は笑った。


「スマホの使い方は知ってても、スマホ作れないでしょ」


「すまほ?」


「そうだった」


 例えが通じない。


「馬車に乗れる人が、馬車を一から作れるとは限らない」


「ああ」


「そういうこと」


「なるほど」


 凛は少し安心した。


 リゲルが、自分を万能な人間だと思っていない。


 それはありがたい。


「私は知ってることを試すだけ」


「はい」


「こっちでうまくいくとは限らない」


「はい」


「失敗すると思う」


「はい」


「そこは少し否定してよ」


「なぜです?」


「もういい」


     *


 葡萄を潰す。


 果汁を取る。


「酵母は?」


「こうぼ?」


「やっぱりないよね」


 凛の実家は、小さいながら酒造りにも関わっていた。


 大学でも発酵を学んだ。


 だから理屈は分かる。


 ただ。


「地球なら酵母を用意するんだけど」


 ここにはない。


 正確には、存在はしているはずだ。


 自然界に。


 葡萄の表面にも。


「自然発酵でいくしかないか」


「何をするのです?」


「待つ」


「それだけ?」


「それだけ」


「簡単ですね」


「そう思うでしょ?」


 凛は笑った。


「失敗すると腐るよ」


「捨てる葡萄ですから」


「だから実験にはちょうどいい」


 三種類を別々の容器へ入れる。


 布をかける。


「終わり?」


「今日は」


「お酒は?」


「できるまで待つ」


 ジェネが残念そうな顔をした。


「飲みたかった?」


「少し」


「好きなんだ」


「人並みに」


「覚えておこう」


「なぜです?」


「何か頼むとき使える」


「リン様」


「冗談」


 半分は。


     *


 数日後。


「臭い」


 凛は顔をしかめた。


「これは駄目」


 一つ目。


 明らかにおかしい。


「捨てる」


「酒ではないのですか?」


「これは飲んじゃ駄目」


「なぜ?」


「私にも何が増えたか分からないから」


 二つ目。


「これは……」


 発酵している。


 匂いも悪くない。


 三つ目。


「こっちも」


 凛の胸が高鳴る。


「できた?」


 ジェネが覗き込む。


「まだ」


「飲めませんか?」


「ちょっとなら」


「私が」


「待って」


「毒見します」


「そういう意味じゃない」


 凛は小さな器へ取った。


 まず匂い。


 次に、ほんの少しだけ舌へ。


「……う」


「リン様!」


「まずい」


「毒ですか!」


「違う。たぶん」


「たぶんで飲まないでください!」


「味がまずいだけ」


 酸っぱい。


 雑味。


 期待したような甘いワインではない。


「失敗?」


 リゲルが尋ねる。


「うん」


「そうですか」


「でも」


 凛はもう一度匂いを嗅ぐ。


「酒にはなってる」


「では成功では?」


「商品にはならない」


「しょうひん?」


「売り物」


「ああ」


「こんなの売ったら二度と買ってもらえない」


 凛は木片へ記録する。


「次」


「また造るのですか?」


「当然」


「失敗したのに?」


「失敗したから」


 リゲルが笑った。


「何?」


「リンは、失敗すると元気になりますね」


「そう?」


「はい」


 言われてみればそうかもしれない。


 仕事では失敗が怖かった。


 一つの数字。


 一つの説明。


 一つの言葉。


 多くの人へ影響する。


 だから何度も確認する。


 失敗しないように。


 でもこれは違う。


 小さく試している。


 失敗しても葡萄数房。


「実験って楽しいからね」


「じっけん?」


「失敗するために小さくやるの」


「失敗するため?」


「失敗して、何が駄目だったか探す」


 凛は次の木片を用意した。


「次は容器をもっときれいにする」


「汚かったのですか?」


「見た目はきれい。でも熱湯使ってみよう」


「湯で?」


「あと葡萄も分ける」


 状態。


 収穫時期。


 置く場所。


「やれることいっぱいある」


 凛は夢中で書き始めた。


 ふと。


 視線を感じる。


 リゲル。


 ジェネ。


 畑の持ち主。


 三人が自分を見ている。


「何?」


「いえ」


 ジェネが笑う。


「リン様は、本当に働かない生活を望んでいるのですか?」


「望んでるよ!」


「そうは見えません」


「これは仕事じゃない」


「では?」


「遊び」


 即答した。


「遊びで酒を造るのですか?」


「面白いじゃん」


 ジェネとリゲルが顔を見合わせた。


「何その顔」


「似合っていると思いまして」


 リゲルが言う。


「何が?」


「ここでの暮らしが」


 凛は返事をしなかった。


 まだ来て数日。


 死んだことも。


 帰れないことも。


 結婚のことも。


 何一つ整理できていない。


 でも。


 東京にいたころ。


 午前三時まで資料を作っていた自分より。


 腐った葡萄を前にしている今の自分の方が、


 ずっと生きている気がした。


     *


 その日の夕方。


 凛は館の外へ出た。


 夕日が畑を赤く染めている。


「きれい」


 後ろから足音。


「ここでしたか」


「リゲル」


「夕食です」


「今行く」


 並んで歩く。


「ねえ」


「はい」


「私が結婚断ったら、どうする?」


 リゲルが少し驚いた。


「突然ですね」


「聞きたくなった」


「別の方を探すことになるでしょう」


「現地で?」


「おそらく」


「最初からそうすればよかったのに」


「そうですね」


「認めるんだ」


 リゲルは少し笑った。


「なぜ私だったの?」


「神が候補を示しました」


「神様が?」


「はい」


「農業できるから?」


「分かりません」


「役人だから?」


「それも」


「性格?」


「それは違うかもしれません」


「どういう意味!」


「冗談です」


「冗談言うんだ!」


 意外だった。


「少しは」


「真面目なだけの人かと思ってた」


「リンほど面白くはありません」


「私、面白い?」


「かなり」


「褒められてる気がしない」


 二人で歩く。


 館が見えてきた。


「リゲル」


「はい」


「結婚」


 足が止まった。


「もう少し考える」


「はい」


「でも」


 凛は畑を振り返った。


「ここにいるのは、そんなに嫌じゃないかも」


 リゲルは静かに笑った。


「それで十分です」


 その夜。


 凛は次の葡萄酒の仕込みを考えながら眠った。


 優雅な昼寝生活は、


 また一日、


 遠ざかっていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。