腐った葡萄?
「まず確認」
翌朝。
凛は机の前に座っていた。
「私は領主夫人ではありません」
「はい」
リゲルが答える。
「まだ結婚すると決めてません」
「はい」
「だから命令する権限もありません」
「はい」
「なのに」
凛は机の上を見る。
葡萄。
木の桶。
布。
小さな壺。
そして数人の人間。
「なんでこうなったの?」
「リンが試してみたいと言ったので」
「言ったけど!」
「用意しました」
「仕事早いね!」
「ありがとうございます」
「褒めてない!」
リゲルの横では、一人の女性が笑いを堪えている。
昨日から何度か見かけた。
二十代半ばくらい。
動きやすそうな服装。
腰に剣。
「ところで」
凛は彼女を見る。
「あなた誰?」
「ジェネと申します」
「ジェネさん」
「呼び捨てで結構です」
「じゃあジェネ」
「はい」
「何する人?」
「護衛です」
「誰の?」
「お方様の」
「まだ違う!」
ジェネが笑った。
「リゲル様から、リン様をお守りするよう命じられました」
「リンでいいよ」
「できません」
「なんで?」
「身分がありますので」
「まだ結婚してない」
「予定ですから」
「予定で身分がつくの?」
「つきます」
「面倒くさい世界だなあ」
リゲルが小さく咳払いした。
「聞こえています」
「聞かせた」
「そうですか」
凛は葡萄へ向き直った。
「で、これ」
昨日の貴腐らしき葡萄。
「本当に使っていいの?」
「どうせ捨てるものです」
畑の持ち主も来ている。
「駄目になったものなら、いくらでも」
「それ、まだ決めつけないでね」
凛は一房取る。
「たぶん貴腐葡萄。でも、地球と同じ菌なのかは分からない」
「きん?」
「ものすごく小さい生き物みたいなもの」
「見えないのですか?」
「普通は」
「魔ですか?」
「違う……と思う」
「では精霊?」
「それも違う」
「見えないのに生きている?」
「いるんだよ」
説明が難しい。
顕微鏡もない。
「とにかく」
凛は手を叩いた。
「少量で試します」
「大量には造らないのですか?」
リゲルが尋ねる。
「いきなりやって失敗したら全部無駄になるでしょ」
「なるほど」
「それから、条件を変える」
「条件?」
「普通の葡萄。これ。混ぜたもの」
三種類。
「できれば容器もいくつか」
「なぜ?」
「何がうまくいったのか分からなくなるから」
凛は木片を手に取った。
紙が少ないので、記録は木片へ刻む。
「日付」
「ひづけ?」
「あ、この世界の日付分かんない」
いきなり躓いた。
「今日は第三月の十二日です」
「月に名前ないの?」
「第三月です」
「一月、二月、三月?」
「第一月、第二月、第三月」
「そのまんまだ」
「分かりやすいでしょう?」
「まあ」
暦の問題は後回し。
「第三月十二日。天気」
「晴れです」
「気温」
「きおん?」
「……これも測れない」
温度計がない。
「暑い、普通、寒いでいいか」
農水省時代の同僚が見たら頭を抱えそうな記録方法だ。
「道具がないって大変」
「何が必要なのです?」
「いっぱい」
「作れますか?」
「作り方知らないものの方が多い」
リゲルが意外そうな顔をした。
「リンの世界の知識があれば、何でも作れるのかと思っていました」
「無理無理」
凛は笑った。
「スマホの使い方は知ってても、スマホ作れないでしょ」
「すまほ?」
「そうだった」
例えが通じない。
「馬車に乗れる人が、馬車を一から作れるとは限らない」
「ああ」
「そういうこと」
「なるほど」
凛は少し安心した。
リゲルが、自分を万能な人間だと思っていない。
それはありがたい。
「私は知ってることを試すだけ」
「はい」
「こっちでうまくいくとは限らない」
「はい」
「失敗すると思う」
「はい」
「そこは少し否定してよ」
「なぜです?」
「もういい」
*
葡萄を潰す。
果汁を取る。
「酵母は?」
「こうぼ?」
「やっぱりないよね」
凛の実家は、小さいながら酒造りにも関わっていた。
大学でも発酵を学んだ。
だから理屈は分かる。
ただ。
「地球なら酵母を用意するんだけど」
ここにはない。
正確には、存在はしているはずだ。
自然界に。
葡萄の表面にも。
「自然発酵でいくしかないか」
「何をするのです?」
「待つ」
「それだけ?」
「それだけ」
「簡単ですね」
「そう思うでしょ?」
凛は笑った。
「失敗すると腐るよ」
「捨てる葡萄ですから」
「だから実験にはちょうどいい」
三種類を別々の容器へ入れる。
布をかける。
「終わり?」
「今日は」
「お酒は?」
「できるまで待つ」
ジェネが残念そうな顔をした。
「飲みたかった?」
「少し」
「好きなんだ」
「人並みに」
「覚えておこう」
「なぜです?」
「何か頼むとき使える」
「リン様」
「冗談」
半分は。
*
数日後。
「臭い」
凛は顔をしかめた。
「これは駄目」
一つ目。
明らかにおかしい。
「捨てる」
「酒ではないのですか?」
「これは飲んじゃ駄目」
「なぜ?」
「私にも何が増えたか分からないから」
二つ目。
「これは……」
発酵している。
匂いも悪くない。
三つ目。
「こっちも」
凛の胸が高鳴る。
「できた?」
ジェネが覗き込む。
「まだ」
「飲めませんか?」
「ちょっとなら」
「私が」
「待って」
「毒見します」
「そういう意味じゃない」
凛は小さな器へ取った。
まず匂い。
次に、ほんの少しだけ舌へ。
「……う」
「リン様!」
「まずい」
「毒ですか!」
「違う。たぶん」
「たぶんで飲まないでください!」
「味がまずいだけ」
酸っぱい。
雑味。
期待したような甘いワインではない。
「失敗?」
リゲルが尋ねる。
「うん」
「そうですか」
「でも」
凛はもう一度匂いを嗅ぐ。
「酒にはなってる」
「では成功では?」
「商品にはならない」
「しょうひん?」
「売り物」
「ああ」
「こんなの売ったら二度と買ってもらえない」
凛は木片へ記録する。
「次」
「また造るのですか?」
「当然」
「失敗したのに?」
「失敗したから」
リゲルが笑った。
「何?」
「リンは、失敗すると元気になりますね」
「そう?」
「はい」
言われてみればそうかもしれない。
仕事では失敗が怖かった。
一つの数字。
一つの説明。
一つの言葉。
多くの人へ影響する。
だから何度も確認する。
失敗しないように。
でもこれは違う。
小さく試している。
失敗しても葡萄数房。
「実験って楽しいからね」
「じっけん?」
「失敗するために小さくやるの」
「失敗するため?」
「失敗して、何が駄目だったか探す」
凛は次の木片を用意した。
「次は容器をもっときれいにする」
「汚かったのですか?」
「見た目はきれい。でも熱湯使ってみよう」
「湯で?」
「あと葡萄も分ける」
状態。
収穫時期。
置く場所。
「やれることいっぱいある」
凛は夢中で書き始めた。
ふと。
視線を感じる。
リゲル。
ジェネ。
畑の持ち主。
三人が自分を見ている。
「何?」
「いえ」
ジェネが笑う。
「リン様は、本当に働かない生活を望んでいるのですか?」
「望んでるよ!」
「そうは見えません」
「これは仕事じゃない」
「では?」
「遊び」
即答した。
「遊びで酒を造るのですか?」
「面白いじゃん」
ジェネとリゲルが顔を見合わせた。
「何その顔」
「似合っていると思いまして」
リゲルが言う。
「何が?」
「ここでの暮らしが」
凛は返事をしなかった。
まだ来て数日。
死んだことも。
帰れないことも。
結婚のことも。
何一つ整理できていない。
でも。
東京にいたころ。
午前三時まで資料を作っていた自分より。
腐った葡萄を前にしている今の自分の方が、
ずっと生きている気がした。
*
その日の夕方。
凛は館の外へ出た。
夕日が畑を赤く染めている。
「きれい」
後ろから足音。
「ここでしたか」
「リゲル」
「夕食です」
「今行く」
並んで歩く。
「ねえ」
「はい」
「私が結婚断ったら、どうする?」
リゲルが少し驚いた。
「突然ですね」
「聞きたくなった」
「別の方を探すことになるでしょう」
「現地で?」
「おそらく」
「最初からそうすればよかったのに」
「そうですね」
「認めるんだ」
リゲルは少し笑った。
「なぜ私だったの?」
「神が候補を示しました」
「神様が?」
「はい」
「農業できるから?」
「分かりません」
「役人だから?」
「それも」
「性格?」
「それは違うかもしれません」
「どういう意味!」
「冗談です」
「冗談言うんだ!」
意外だった。
「少しは」
「真面目なだけの人かと思ってた」
「リンほど面白くはありません」
「私、面白い?」
「かなり」
「褒められてる気がしない」
二人で歩く。
館が見えてきた。
「リゲル」
「はい」
「結婚」
足が止まった。
「もう少し考える」
「はい」
「でも」
凛は畑を振り返った。
「ここにいるのは、そんなに嫌じゃないかも」
リゲルは静かに笑った。
「それで十分です」
その夜。
凛は次の葡萄酒の仕込みを考えながら眠った。
優雅な昼寝生活は、
また一日、
遠ざかっていた。




