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領主様のお嫁様

 ホルクの背に揺られながら、凛はアンジェルの景色を眺めていた。


「広いね」


「はい」


「本当に全部リゲルの領地?」


「正確には、私のものではありません」


「違うの?」


「預かっているだけです」


「誰から?」


「神と、ここに暮らす者たちから」


「……また神様か」


 こちらの世界では、どうやら神はかなり身近な存在らしい。


 日本で役所勤めをしていた凛には、まだ感覚がつかめない。


「領主って王様みたいなもの?」


「違います」


「貴族?」


「それも少し違います」


「じゃあ何?」


「領主です」


「説明になってないよ」


 リゲルは困ったように笑った。


 アンジェルには王はいない。


 領主であるリゲルが国を治めている。


 ただし、何でも好き勝手に決められるわけではない。


 村々にはそれぞれ長がいて、普段の生活は村単位で成り立っている。


 重大な問題が起きたときに領主が判断する。


 そして必要なら神へ伺いを立てる。


「それって、政治家?」


「せいじか?」


「役人?」


「やくにん?」


「もういい」


 比較するのを諦めた。


 たぶん、地球の制度へ無理に当てはめない方がいい。


 それより凛の目を引くものがあった。


「畑、多いね」


「アンジェルは農業の国です」


「小麦?」


「はい」


「向こうは豆?」


「そうです」


「あれは?」


「葡萄です」


 凛は思わず身を乗り出した。


「危ないですよ」


「ごめん」


 ファルコンの首を軽く撫でる。


「でも、すごい」


 久しぶりだった。


 こんなに長い時間、畑を眺めるのは。


 霞が関へ入ってからも農村へ行く機会はあった。


 だが仕事だ。


 視察。


 説明。


 聞き取り。


 現場へ行っても、次の予定が待っている。


 こんなふうに、ただ作物を見ることなどなかった。


「ねえ、あの小麦」


「何です?」


「少し生育がばらついてる」


「せいいく?」


「育ち方」


「ああ」


「向こうはいいけど、手前はちょっと弱い」


 リゲルが畑を見る。


「分かるのですか?」


「専門家ほどじゃないよ」


「農業の役人だったのでしょう?」


「役人だからって農業の専門家とは限らないの」


 凛は苦笑した。


「私の場合、実家が農家だったし、農業高校と農業大学だから普通よりは分かるけど」


「では専門家では?」


「農家にそんなこと言ったら怒られる」


 知識と経験は違う。


 教科書で知っていること。


 研究室でやったこと。


 実際の畑で毎年作物を育てること。


 同じではない。


 それは両親を見て育ったから分かっている。


「でも、なんでこんなに差があるんだろ」


 土か。


 水か。


 種か。


 肥料か。


 病気か。


 見ただけでは分からない。


「気になりますか?」


「うん」


「降りてみます?」


「いいの?」


「もちろん」


 道沿いの畑でホルクを止めた。


 農作業をしていた男が、リゲルに気づいて慌てて頭を下げる。


「リゲル様!」


「仕事を続けてください」


「ですが」


「今日は見ているだけです」


 男の視線が凛へ移った。


 露骨に不思議そうな顔。


「この方は?」


「リンです」


「はあ」


 リゲルが続ける。


「私の妻になっていただく予定の」


「予定!」


 凛が割って入った。


「まだ予定!」


「はい。予定です」


 男の目が丸くなった。


「お、お方様!」


「違う違う!」


「お方様?」


「領主の奥方を、そう呼ぶことがあります」


「まだ違うから!」


 男が困っている。


「リンでいいです」


「そんな恐れ多い」


「じゃあ……」


 凛は考えた。


「好きに呼んでください」


「一番困るやつですよ、それ」


 リゲルに言われた。


「あなた結構突っ込むね」


「リンほどではありません」


「私そんなに?」


「はい」


 農家の男が笑いを堪えている。


 少し空気が柔らかくなった。


「畑、見てもいいですか?」


「もちろんです」


 凛は畑へ入った。


 土を手に取る。


「ふうん」


 見た目ほど悪くない。


「肥料は何を?」


「ひりょう?」


「畑に入れるもの。家畜の糞とか、草を腐らせたものとか」


「ホルクの糞は使います」


「堆肥にする?」


「たいひ?」


「そのまま?」


「乾かしてから撒きます」


「なるほど」


 これだけで良い悪いは判断できない。


「同じ場所で毎年小麦?」


「豆と交互です」


「輪作はしてるんだ」


「りんさく?」


「こっちの話」


 凛は立ち上がった。


「今年、雨少なかった?」


「少し」


「去年は?」


「多かったです」


「種は毎年どうしてる?」


「収穫した中から残します」


「選ぶ基準は?」


「よく実ったものを」


「ちゃんとしてる」


 凛は感心した。


 技術がないわけではない。


 当然だ。


 この土地で何世代も農業をしてきた人たちだ。


 異世界から来た自分より、この畑についてはずっと詳しい。


「何か分かりましたか?」


 リゲルが尋ねる。


「全然」


「全然?」


「一回見ただけで分かったら神様だよ」


「神なら分かるかもしれません」


「本当に聞きそうだからやめて」


 凛は手についた土を払った。


「ただ」


「はい」


「この人たち、別に何も知らないわけじゃない」


 男が首を傾げる。


「当たり前だよね」


 自分に言った。


 貧しい。


 技術が遅れている。


 そう聞いた瞬間、どこかで決めつけていた。


 自分の知識なら役に立つ。


 そう思った。


 だが。


 農業はそんなに簡単ではない。


「ありがとうございます」


 凛は男へ頭を下げた。


「い、いえ!」


 向こうが慌てる。


「また話聞かせてください」


「私でよろしければ」


「ぜひ」


 ファルコンへ戻る。


 リゲルが笑っていた。


「何?」


「楽しそうなので」


「そう?」


「こちらへ来てから、一番」


 言われて気づいた。


 確かにそうかもしれない。


「畑、好きだから」


「農業をされたいのですか?」


「いや」


 凛は即答した。


「見るだけでいい」


「なぜです?」


「農業は大変だから」


「詳しいのですね」


「農家の娘なめないで」


 父と母の姿を思い出す。


 朝。


 雨。


 暑さ。


 台風。


 収穫。


 価格。


 病害虫。


 農業は、外から見るほどのんびりした仕事ではない。


「私は優雅な領主夫人を目指すから」


「そうでしたね」


「お茶飲んで、本読んで、昼寝する」


「できますよ」


「本当?」


「たぶん」


「また、たぶん!」


     *


 最初の村へ着いた。


 凛は、少し驚いた。


 家は木造。


 屋根は板や草。


 道は土。


 電気など当然ない。


 だが。


「思ったより普通」


「何を想像していたのです?」


「もっとこう……」


 貧困。


 という言葉から、勝手に悲惨な景色を想像していた。


 だが子供たちが走っている。


 女性たちが話をしている。


 男たちは畑から戻ってくる。


 洗濯物。


 煙。


 家畜。


 笑い声。


「みんな普通に暮らしてる」


「普通に暮らしていますよ」


「そりゃそうか」


 当たり前のことに、また気づかされる。


 凛が珍しいのだろう。


 子供たちが遠巻きに見ている。


「誰?」


「リゲル様と一緒」


「外国の人?」


 凛は手を振った。


 子供たちが逃げた。


「逃げた!」


「知らない人ですから」


「ちょっと傷つく」


 しばらくすると、一人の少女が戻ってきた。


 十歳くらいだろうか。


「こんにちは」


 凛が言う。


 少女は頭を下げた。


「こんにちは」


「名前は?」


「ミク」


「ミクちゃん」


「お方様?」


「違う」


「違うの?」


「まだ」


 リゲルが後ろで笑っている。


「何がおかしいの」


「いえ」


 ミクは凛の服を珍しそうに見ている。


「学校は?」


 凛が何気なく尋ねた。


「がっこう?」


 嫌な予感。


「みんなで集まって、字とか計算とか教えてもらうところ」


「ないよ」


「じゃあ字は?」


「お母さんに教えてもらった」


「計算は?」


「少し」


「ほかの子は?」


「知らない」


 リゲルへ振り返る。


「本当に学校ないんだ」


「先ほど申し上げました」


「国中?」


「ありません」


「一万人いるのに?」


「はい」


「どうやって読み書き覚えるの?」


「親や、できる者から」


「全員?」


「必要な者は」


 必要な者。


 その言葉が引っかかった。


「ミクちゃん、大きくなったら何するの?」


「畑」


「決まってるの?」


「うん」


 少女は当たり前のように答えた。


「お父さんとお母さんの畑があるから」


「ほかの仕事したいと思ったことない?」


「ほか?」


 質問の意味そのものが分からないらしい。


 凛は黙った。


「ごめん。変なこと聞いた」


「ううん」


 ミクは友達のところへ走っていった。


「リゲル」


「はい」


「学校、作らないの?」


「なぜです?」


「なぜって」


 凛は言葉に詰まった。


 学校はあるもの。


 子供は学校へ行くもの。


 それが自分の常識だった。


「必要ない?」


「今までは」


「でも」


 凛は子供たちを見る。


 楽しそうだ。


 かわいそうには見えない。


 それでも。


 読み書きを覚える機会が、親によって違う。


 生まれた家によって、最初からできることが決まってしまう。


「……学校はあった方がいいと思う」


「リンの国には、どこにでもあるのですか?」


「ある」


「皆が行く?」


「ほぼ全員」


「農作業は?」


「大人がやる」


「子供は働かないのですか?」


「手伝いくらいはするけど」


 リゲルは驚いている。


「豊かな国なのですね」


 その言葉に、凛は答えられなかった。


 豊か。


 確かに日本は豊かだった。


 少なくとも、ここよりは。


 なのに自分は、


 毎日死にそうな顔をして働いていた。


「豊かだから幸せ、とは限らないけどね」


「そうなのですか?」


「たぶん」


 今度は自分が、たぶんと言った。


     *


 村を出て、さらに進む。


 昼近くになった。


「お腹すいた」


「もうすぐ休める場所があります」


「パン?」


「はい」


「またパン?」


「嫌いですか?」


「嫌いじゃないけど、米食べたい」


「こめ、というものですね」


「白い粒」


「ありません」


「知ってる」


 凛はため息をついた。


 そのとき。


 甘い匂いがした。


「ん?」


 ファルコンを止める。


「どうしました?」


「葡萄」


 道の脇。


 広い葡萄畑。


 収穫時期なのだろう。


 実がたくさんついている。


 だが。


「うわ」


 一部の房がひどい状態になっていた。


 実が萎びている。


 表面には灰色がかったもの。


「病気?」


 凛はファルコンから降りた。


「リン?」


「ちょっと見てくる」


 畑の中へ入る。


 近くで作業していた女性が声をかけてきた。


「それは駄目ですよ」


「これ?」


「腐っています」


「捨てるの?」


「はい」


 女性は困った顔をした。


「今年は霧が多くて。こうなる実が増えてしまって」


 凛は房を見る。


 鼻を近づける。


「ちょっと待って」


 記憶を探る。


 農業高校。


 大学。


 発酵。


 醸造。


 ワイン。


「これ……」


「リン?」


 リゲルが追いついてきた。


「どうしました?」


「もしかして」


 凛は一粒取った。


「食べてもいい?」


 女性が驚く。


「腐っていますよ!」


「たぶん大丈夫」


「リン」


「一粒だけ」


 口へ入れる。


「……甘い」


「本当ですか?」


「ものすごく甘い」


 水分が抜け、糖分が凝縮されている。


 そして、この状態。


 見覚えがある。


「これ、腐ってない」


「ですが」


「いや、腐ってると言えば腐ってるんだけど」


「どちらです?」


「いい方に腐ってる」


 リゲルが困った顔をした。


「そんなものがあるのですか?」


「ある」


 凛は房を見つめた。


「たぶん」


「また、たぶんですか?」


「確かめないと断言できないから」


 でも。


 もし自分の知っているものと同じなら。


「貴腐」


「きふ?」


「貴腐葡萄」


 凛の頭の中で、大学時代に学んだ知識が次々と蘇る。


 菌。


 湿度。


 乾燥。


 糖度。


 ワイン。


「これでお酒を造ったら」


「酒?」


「すごくいいワインができるかもしれない」


 女性が首を傾げる。


「わいん?」


「葡萄のお酒」


「葡萄で酒を?」


 凛は今度こそ驚いた。


「ないの?」


「酒は麦や果実から作るものもありますが、葡萄では聞きません」


「本当に?」


 凛の胸が高鳴った。


 目の前に、


 今まで捨てられていた葡萄がある。


 もしこれが本当に貴腐葡萄なら。


「ちょっと面白くなってきた」


「リン?」


 リゲルが呼ぶ。


「何でもない」


 凛は笑った。


 優雅な領主夫人。


 お茶。


 読書。


 昼寝。


 それを目指していたはずなのに。


 異世界へ来て一日もたたないうちに、


 凛は畑の真ん中で、


 **捨てられる葡萄をどうやって酒にするか考え始めていた。**


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