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どうやら死んだらしい

 最初に感じたのは、風だった。

 冷房でも、地下鉄のホームを吹き抜ける生ぬるい風でもない。

 草の匂いを含んだ、柔らかな風。

「……ん」

 凛は目を開けた。

 青空が見えた。

「青空?」

 おかしい。

 さっきまで駅にいた。

 電車が迫ってきた。

 男の手を取った。

 それから――。

「気がつきましたか?」

 声がした。

 いい声。

「あ」

 凛は勢いよく起き上がった。

「痛っ!」

 頭がくらくらする。

「無理に起きないでください」

 男が支えてくれた。

 凛は、その顔を見た。

 黒い髪。

 落ち着いた目。

 年齢は自分より少し上だろうか。

 服装は明らかに現代日本のものではない。

 白いシャツに似た衣服の上から、濃い色の上着を羽織っている。

 腰には剣らしきものまである。

 そして顔は。

「……そこそこ」

「はい?」

「あ、いや、何でもないです」

 タムは正しかった。

 美男子というほどではない。

 かといって悪くもない。

 本当に、そこそこ。

「タム、正直だなあ」

「タムをご存じなのですか?」

「知ってるというか、夢に出てきたというか」

 そこで凛は周囲を見回した。

 草原。

 少し離れたところに森。

 遠くには山。

 駅はない。

 線路もない。

 ビルもない。

 電柱もない。

 自動車もない。

 人さえ、目の前の男しかいない。

「……ここ、どこ?」

「アンジェルです」

「アンジェル」

「はい」

「東京都?」

「とうきょうと?」

 違う。

 凛は額を押さえた。

「ちょっと待って」

「はい」

「あなた、誰?」

「リゲルです」

「リゲルさん」

「はい」

「さっき、駅にいましたよね」

「えき、というものは分かりませんが、あなたのいた場所へは参りました」

「電車の前で」

「大きな鉄のものが迫っていました」

「やっぱり」

 夢ではない。

 少なくとも、この男にはあの瞬間の記憶がある。

「それで、あなたが手を出した」

「はい」

「私がつかんだ」

「はい」

「ここへ来た」

「はい」

 凛は深く息を吸った。

「……帰れます?」

 リゲルが黙った。

 嫌な沈黙だった。

「帰れない?」

「はい」

「なんで?」

「あなたは、あちらでは亡くなりました」

 凛は瞬きをした。

「……はい?」

「亡くなりました」

「誰が?」

「あなたが」

「私?」

「はい」

「死んだ?」

「はい」

「いつ?」

「こちらへ来る直前です」

「いやいやいや」

 凛は手を振った。

「私、今しゃべってますよ」

「こちらでは生きています」

「そういう問題じゃなくて」

 胸へ手を当てる。

 鼓動がある。

 手も動く。

 足もある。

 痛みも感じる。

「死んでないじゃん」

「こちらでは」

「だから!」

 声を荒らげてから、凛は黙った。

 電車。

 警笛。

 迫ってきた車体。

 あの距離。

 普通に考えれば、助からない。

「……本当に?」

「はい」

「私、電車にはねられたの?」

「正確には、衝突する直前にこちらへ移しました」

「じゃあ死んでないじゃん!」

「身体はあちらへ残りました」

「何それ!」

 凛は立ち上がろうとした。

 足に力が入らず、また座り込む。

「落ち着いて」

「落ち着けるか!」

 リゲルが困った顔をした。

「すみません」

「なんであなたが謝るの?」

「説明が難しくて」

「説明して!」

「はい」

 素直だ。

 凛は怒鳴る気力が少し削がれた。

「最初から」

「分かりました」

 リゲルは凛の少し前へ座った。

「あなたの世界と、この世界は別の場所にあります」

「そこから?」

「必要でしょう?」

「まあ、必要か」

 凛も座り直す。

「続けて」

「普通は行き来できません」

「うん」

「ですが、ごくまれに魂を移すことができます」

「魂」

「はい」

「宗教?」

「宗教?」

「いいです。続けて」

「ただし、生きている者を勝手に連れてくることは許されていません」

「そりゃそうでしょ」

 そんなことができたら誘拐である。

「だから、死が近い者の中から、この世界へ来る意思のある者を探します」

「……ちょっと待って」

「はい」

「死が近い?」

「はい」

「私、死ぬ予定だったの?」

「そう聞いております」

「誰に」

「神に」

 凛は空を見上げた。

「話が大きくなってきた」

「そうですか?」

「神様が出てきたら大きいよ」

「こちらでは普通ですが」

「普通なの?」

「はい」

 文化の差が激しすぎる。

「じゃあ、あの事故は?」

「私たちが起こしたものではありません」

「本当?」

「はい」

 リゲルはまっすぐ凛を見る。

「あなたは、あのままでも亡くなっていました」

「それで?」

「その直前に、私が手を伸ばしました」

「私が手を取らなかったら?」

 リゲルが少し言いにくそうな顔をした。

「そのまま」

「死んでた?」

「はい」

「選択肢になってないじゃん!」

「私もそう思います」

「思うんだ!」

 思わず笑いそうになった。

 笑うところではない。

 自分は死んだのだ。

 たぶん。

「じゃあ」

 凛は自分の手を見る。

「この体は?」

「あなたのものです」

「置いてきたんじゃないの?」

「魂に合わせて、こちらで形作られたものだと聞いています」

「コピー?」

「こぴー?」

「分からないよね」

 凛は頬をつねった。

「痛い」

「何をしているのです?」

「夢じゃないか確認」

「夢ではありません」

「それ、夢の中でも言うから」

「そうなのですか」

「たぶん」

 凛はもう一度周囲を見る。

 青空。

 草。

 森。

 鳥の声。

 現実感がありすぎる。

「スマホ」

「すまほ?」

「あ」

 ポケットを探る。

 ない。

 鞄もない。

 財布もない。

 何もない。

「私の荷物は?」

「持ってきていません」

「スマホも?」

「それが何か分かりません」

「財布」

「さいふ?」

「身分証」

「みぶんしょう?」

「……終わった」

 凛は両手で顔を覆った。

 仮に東京へ戻れたとしても大変だが、戻ることすらできない。

「仕事」

「はい?」

「今日仕事なの」

「ですが」

「分かってる」

 凛は顔を上げた。

「死んだ人は出勤しない」

「そうですね」

「無断欠勤にはならないよね」

「むだんけっきん?」

「もういい」

 妙なところが気になる。

 職業病だろうか。

 今日予定されていた会議。

 資料。

 メール。

 引き継ぎ。

「机の中、汚かったなあ」

「はい?」

「死ぬなら片づけておけばよかった」

「そこなのですか?」

「恥ずかしいでしょ」

 リゲルが少し笑った。

「何?」

「いえ」

「笑った?」

「少し」

「こっちは死んでるんだけど」

「すみません」

「まあいいけど」

 凛も、少しだけ笑った。

 不思議だった。

 泣くと思った。

 取り乱すと思った。

 もちろん混乱している。

 怖い。

 でも。

 戻りたい場所を考えたとき。

 真っ先に浮かんだのが職場だった。

 家族ではない。

 両親はもういない。

 恋人もいない。

 自分を待っている子供もいない。

 友人はいる。

 同僚もいる。

 きっと悲しんでくれる人もいる。

 それでも。

 何が何でも帰らなければならない場所が、凛には思いつかなかった。

 そのことが、

 自分が死んだことより少し悲しかった。

「……そっか」

「リン?」

 初めて名前を呼ばれた。

「私、本当に死んだんだ」

「はい」

「両親のところ行けなかったな」

 口に出してから、自分でも驚いた。

 死んだら会えるなど、本気で信じていたわけではない。

 ただ。

 ほんの少し期待していたのかもしれない。

「ご両親は?」

「いない」

「亡くなられた?」

「たぶん」

「たぶん?」

「見つからなかったから」

 リゲルはそれ以上聞かなかった。

 それがありがたかった。

「ねえ」

「はい」

「タムは?」

「今はいません」

「逃げた?」

「仕事へ戻ったのだと思います」

「説明押しつけて?」

「おそらく」

「今度会ったら尻尾引っ張る」

「怒ると思います」

「猫のくせに」

「猫ではありません」

「本人も言ってた」

 少し間が空いた。

 凛は、もっと重要なことを思い出した。

「そうだ」

「はい」

「私、なんでここに呼ばれたの?」

 リゲルが姿勢を正した。

「それを説明しなければなりません」

「お姫様?」

「お姫様?」

「タムが言った」

「ああ」

 リゲルが微妙な顔をした。

「違うの?」

「少し」

「また少し!」

 嫌な予感がする。

「正確には、私はこの地の領主です」

「うん」

「あなたには」

「うん」

「私の妻になっていただきたい」

 凛は固まった。

「…………誰の?」

「私の」

「なんで?」

「必要だからです」

「何その理由!」

「妻が必要なのです」

「だからって知らない女を異世界から連れてくる!?」

「私も、かなり迷いました」

「迷ってやったの!?」

「はい」

「はいじゃない!」

 凛は立ち上がった。

 今度はなんとか立てた。

「帰る!」

「帰れません」

「そうだった!」

 その場へしゃがみ込む。

「最悪」

「すみません」

「リゲルさん」

「はい」

「一個だけ確認」

「何でしょう」

「私が結婚しないって言ったら?」

「結婚しなくて構いません」

 凛は顔を上げた。

「いいの?」

「もちろんです」

「じゃあ何で呼んだの?」

「妻になっていただければと思って呼びました」

「断ったら?」

「この国で暮らしていただきます」

「追い出さない?」

「どこへです?」

「そうだけど」

「生活に困らないようにはします」

「閉じ込める?」

「しません」

「無理やり結婚?」

「しません」

「本当に?」

「はい」

 凛はじっと彼を見た。

 嘘をついているようには見えない。

「……そこはまともなんだ」

「そこは?」

「いや、こっちの話」

 凛は再び草の上へ座った。

「考える時間ちょうだい」

「もちろんです」

「すぐ決めなくていい?」

「はい」

「一年くらい?」

「それは少し長いかもしれません」

「じゃあ一か月」

「構いません」

「一か月いいんだ」

「リンが決めることですから」

 凛は彼を見た。

 この男は不思議だ。

 異世界から妻候補を呼ぶという、とんでもないことをしている。

 なのに妙に律儀。

「とりあえず」

 凛は立ち上がった。

「その領地、見せてもらえる?」

「もちろん」

「住むかもしれないところだから」

「はい」

「あと」

「何でしょう」

「ご飯」

「はい?」

「お腹すいた」

 リゲルが笑った。

「用意してあります」

「よかった」

 死んだ。

 異世界へ来た。

 知らない男から求婚された。

 普通なら食欲などなくなりそうなものだ。

 でも。

「何がある?」

「パンと野菜と、肉を」

「米は?」

「こめ?」

「あ、ないんだ」

 凛は少しがっかりした。

 それでも腹は減っている。

「行こう」

「はい」

 リゲルが歩き出す。

 凛も後を追った。

 少し先に、馬のような動物が二頭いる。

「馬?」

「ホルクです」

「ホルク」

 近づいてみる。

 馬によく似ている。

 ただ、耳が少し長い。

 毛も地球の馬よりふわふわしていた。

「かわいい」

 凛が手を伸ばすと、一頭が鼻を寄せてきた。

「この子、名前ある?」

「ファルコンです」

「ファルコン」

 鼻を撫でる。

「よろしくね」

 ファルコンが小さく鳴いた。

「乗れますか?」

「馬なら少しだけ」

「ホルクです」

「似たようなものでしょ」

「たぶん」

「そこは自信ないんだ」

 リゲルが先に乗る。

 凛も教えてもらいながらファルコンへ跨がった。

「高い!」

「大丈夫ですか?」

「たぶん!」

「先ほど私に言ったことと同じですね」

「何?」

「そこは自信ないんだ、と」

「……結構言うね、あなた」

「そうですか?」

「天然?」

「何です?」

「なんでもない」

 ホルクが歩き出した。

 草原を抜ける。

 緩やかな丘を越える。

 その向こう。

 凛は初めて、

 自分がこれから暮らすかもしれない国を見た。

「……え?」

 小さな家々。

 畑。

 葡萄畑。

 遠くに集落。

 さらに向こうにも畑が続いている。

 だが。

「これが領地?」

「はい」

「全部?」

「見えている範囲だけではありません」

「広いじゃん」

「かなり」

「人口は?」

「およそ一万人です」

「一万人?」

 凛はもう一度景色を見る。

 広い。

 広すぎる。

 それなのに人が少ない。

「町は?」

「あります」

「大きい?」

「いいえ」

「学校は?」

 リゲルが首を傾げた。

「学校?」

 その反応だけで嫌な予感がした。

「子供が勉強するところ」

「ああ」

「ある?」

「ありません」

「一つも?」

「ありません」

「病院」

「治療のできる者はおります」

「道路」

「道なら」

「舗装は?」

「ほそう?」

「分かった」

 凛は額を押さえた。

「ねえ、リゲル」

「はい」

「もしかして」

「何でしょう」

「この国、ものすごく貧乏?」

 リゲルは少し考えた。

「他の国と比べれば」

「やっぱり!」

 タム。

 あの猫。

 今度会ったら絶対に尻尾を引っ張る。

「お姫様じゃないじゃん!」

「領主夫人です」

「もっと悪い!」

「なぜです?」

「仕事ありそうだから!」

 凛は頭を抱えた。

 働かなくていい。

 優雅な暮らし。

 昼寝。

 読書。

 そんな夢は、

 異世界へ来て半日もしないうちに、

 ものすごい勢いで崩れ始めて


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