夢の中の猫
午前三時十二分。
佐々木凛は、パソコンの画面右下に表示された時刻を見て、しばらく固まった。
「……三時?」
もう一度見る。
やはり三時十二分だった。
「嘘でしょ」
誰に言ったわけでもない。
部屋には凛しかいない。
ワンルームの小さな部屋。ベッドと机と小さな冷蔵庫。それだけでかなり狭い。
その机の上には、仕事から持ち帰った資料と、コンビニ弁当の空き容器。
窓の外は真っ暗だ。
「明日じゃん」
言ってから首を振る。
「違う。今日じゃん」
いや。
今日というものは、いったいいつから始まったのだろう。
昨日の朝、出勤した。
働いた。
帰ってきた。
家でも働いた。
そして午前三時。
「……馬鹿じゃないの、私」
農林水産省勤務。
国家公務員。
二十五歳。
言葉だけ並べれば、そこそこ立派な人生に聞こえる。
大学を出て試験を受けて、霞が関で働いている。
親が生きていたら喜んでくれただろう。
たぶん。
問題は。
「もう嫌」
その本人が、まったく喜んでいないことだった。
凛はパソコンを閉じた。
続きは明日の――いや今日の自分に押しつける。
ベッドへ倒れ込む。
「お風呂……」
入りたい。
でも起き上がりたくない。
せめて顔だけ。
無理。
「五分だけ……」
それが最後だった。
*
『おーい』
声がした。
『おーい、起きろ』
「……嫌です」
『まだ何も頼んでないぞ』
「仕事なら明日にしてください」
『仕事ではない』
「じゃあメールで」
『めーる?』
「……電話でもいいです」
『でんわ?』
「もう何でもいいから寝かせて」
『お姫様になりたくないか?』
凛は目を開けた。
「……はい?」
目の前に猫がいた。
猫。
たぶん。
形は猫に似ている。
ただし、普通の猫ではない。
まず二本足で立っている。
さらに喋っている。
毛は灰色。
尻尾は長い。
顔は妙に人間くさい。
「何これ」
『タムだ』
「名前聞いてない」
『では何を聞いた』
「何これって聞いた」
『失礼な女だな』
夢だ。
凛は即座に判断した。
疲れすぎた。
ついに喋る猫まで出てきた。
「おやすみなさい」
『待て待て待て』
「明日も仕事なんです」
『だから、その仕事をしなくてよくなる話だ』
凛の目が開いた。
「詳しく」
『食いつくの早いな』
「働かなくていい?」
『たぶんな』
「たぶん?」
『お前の感覚でいうと、お姫様に近い』
「近いって何」
『領主の妻だ』
「領主」
『そうだ』
「お金持ち?」
タムが目をそらした。
「今、目そらしたよね」
『見間違いだ』
「お金持ち?」
『金という概念をどう説明したものか』
「貧乏なの?」
『そうとも言える』
「嫌です」
『即答するな!』
凛は再び目を閉じた。
『待て!』
「私、貧乏なお姫様になるために国家公務員辞めるほど追い詰められてないから」
『かなり追い詰められているように見えるが』
「うるさい」
『夫になる男は悪くないぞ』
「興味ない」
『若い』
「どうでもいい」
『真面目だ』
「はいはい」
『声がいい』
凛は片目を開けた。
「声?」
『そこに反応するのか』
「顔は?」
『そこそこ』
「そこそこ?」
『美男子と言うほどではない』
「正直だね」
『嘘をついても仕方ない』
凛は少し笑った。
「変な夢」
『夢ではある』
「夢なんじゃん」
『だが、ただの夢ではない』
タムは凛の枕元へ座った。
『別の世界へ行ってもらいたい』
「異世界?」
『そう呼んでもよい』
「何しに?」
『領主の妻になる』
「なんで私?」
『向こうの領主が妻を必要としている』
「現地で探せば?」
『事情がある』
「面倒くさそう」
『面倒だぞ』
「嫌です」
『話くらい聞け』
「寝たい」
凛は布団を頭まで被った。
『お前には向いていると思うのだが』
「何が」
『向こうは農業国だ』
布団の中で、凛は目を開けた。
『ただし、あまり豊かではない』
「……農業?」
『葡萄、小麦、豆、野菜。いろいろ作っている』
「気候は?」
『行けば分かる』
「土は?」
『行けば分かる』
「水は?」
『行けば分かる』
「役に立たない猫だね」
『猫ではない!』
「じゃあ何?」
『説明が面倒だから猫でいい』
「猫じゃん」
凛は布団から顔を出した。
「農業国って、どんな?」
『だから行けば』
「行くとは言ってない」
『面倒な女だな』
「知らない世界へ行けって言われて、はい行きますって人の方が怖いでしょ」
『それもそうだ』
タムは尻尾を揺らした。
『では一つだけ』
「何?」
『今よりは、面白いと思うぞ』
凛は黙った。
面白い。
ずいぶん長い間、自分の生活に使っていない言葉だった。
朝起きる。
電車へ乗る。
仕事をする。
帰る。
寝る。
また起きる。
必要な仕事だ。
そう思っている。
農家のため。
国のため。
食料のため。
そういう仕事をしたくて、この道を選んだ。
それなのに。
いつからだろう。
畑を見るより数字を見る時間の方が長くなった。
土に触るより資料を触る時間の方が長い。
農家と話すより、会議で説明する時間の方が長い。
「……面白い、か」
『そうだ』
「働かなくていい?」
『そこに戻るのか』
「大事だよ」
『領主の妻なのだから、畑仕事をする必要はない』
「最高じゃん」
『お前、さっきまで警戒していたよな?』
「だって、お姫様みたいな暮らしでしょ?」
『まあ』
「朝ゆっくり起きて」
『うむ』
「お茶飲んで」
『たぶん』
「本読んで」
『好きにすればいい』
「昼寝して」
『好きにすれば』
「最高」
『安い女だな』
「疲れてるんだよ」
凛は笑った。
「でも行かないよ」
『そうか』
「夢の中の話なら面白いけど」
『そうか』
「本当に別の世界だったら怖いし」
『そうだな』
「今の仕事だって、嫌だからって突然投げ出せない」
『真面目だな』
「普通」
『では、また来る』
「もう来なくていい」
『考えておけ』
「考えません」
『お姫様だぞ』
「貧乏なんでしょ」
『そこは忘れろ』
タムの姿が薄くなる。
「ねえ」
『何だ』
「その領主、本当に声いいの?」
『そこか』
「大事」
『いいぞ』
「顔は?」
『そこそこ』
「そこそこかあ」
『贅沢を言うな』
そこで夢が消えた。
*
目覚まし時計が鳴った。
「…………」
凛は布団の中から手を伸ばす。
止める。
数秒後。
別のアラーム。
「うるさい……」
止める。
さらにスマートフォン。
「分かった! 起きる!」
誰もいない部屋で怒鳴った。
午前六時半。
睡眠時間は三時間ほど。
「死ぬ」
ベッドから這い出す。
シャワー。
着替え。
化粧は最低限。
朝食。
そんなものはない。
冷蔵庫から水を飲む。
「夢……」
猫。
タム。
異世界。
領主。
お姫様。
「疲れてるなあ」
それ以外の感想はなかった。
でも。
「声がいい、か」
そこだけ少し気になった。
「何考えてるんだろ、私」
自分で笑った。
*
駅は今日も混んでいた。
人。
人。
人。
凛は流れに乗って歩く。
昨日と同じ。
たぶん明日も同じ。
階段を下りる。
ホームへ。
電車が入ってくる。
風。
音。
人の列。
凛はスマートフォンを見た。
仕事のメールが来ている。
「もう来てる……」
朝七時台だ。
返信する気力はない。
画面を閉じた。
そのとき。
背中を押された。
「え?」
強く。
体が前へ出る。
ホームの端。
足がない。
落ちる。
電車。
警笛。
誰かの悲鳴。
「嘘」
時間が止まったように感じた。
死ぬ。
そう思った。
その瞬間。
目の前に男がいた。
知らない男。
黒い髪。
派手な美男子ではない。
普通と言えば普通。
でも。
『リン』
声。
「……あ」
いい声だった。
こんなときなのに、
凛は思った。
タム。
あの猫。
嘘をついていなかった。
男が手を伸ばしている。
『来てください』
電車が迫る。
凛は、その手を見た。
知らない世界。
知らない男。
何があるか分からない。
怖い。
当然だ。
でも。
このままなら。
確実に死ぬ。
「選択肢になってないじゃん」
凛は笑った。
そして。
男の手を取った。
世界が、
白く弾けた。




