目安箱
「幸せですか?」
「うん」
「……何ですか、それ」
「だから、それを聞きたいの」
村長が困っていた。
凛も困っていた。
「質問が悪いかな」
「悪いというより、答えようがないのでは?」
ジェネが横から言った。
「じゃあ、どう聞く?」
「私に聞かれても」
「幸せ?」
「急に聞かないでください!」
「ほら答えられない」
「だから言っているのです!」
収穫祭から三日。
凛は村へ来ていた。
目的は一つ。
みんなが何を望んでいるのかを聞く。
ところが。
「幸せですか?」
では、どうにもならない。
「質問変えよう」
凛は木片を取り出した。
「今の暮らしを変えたいですか」
「それなら分かります」
「変えたいなら、何を変えたいですか」
「はい」
「困っていることはありますか」
「はい」
「やってみたいことはありますか」
「……それは必要ですか?」
「必要」
「なぜ?」
「私が知りたいから」
「お方様が?」
「うん」
村長はますます不思議そうな顔をした。
*
紙は高い。
だから。
「木片?」
「そう」
小さな薄い板を何十枚も用意した。
「ここに書いて」
「字を書けない者は?」
「誰かに聞いてもらう」
「誰が?」
「私以外」
「なぜです?」
「私が聞いたら、本当のこと言わないかもしれないから」
領主夫人。
まだ自分では、その重さがよく分からない。
でも。
葡萄をただで差し出そうとした農家を思い出す。
「私が『学校欲しい?』って聞いたら」
凛はジェネを見る。
「欲しくなくても『欲しいです』って言う人いるでしょ」
「いるでしょうね」
「やっぱり」
「お方様があれだけ騒いでおりますので」
「余計悪い!」
質問は簡単にした。
今の暮らしを変えたいか。
困っていることは何か。
欲しいものはあるか。
やってみたいことはあるか。
名前は書かなくてもいい。
「目安箱」
「めやすばこ?」
「私の国にあったの」
「箱に入れるのですか?」
「そう」
「なぜ箱?」
「なんとなく」
「意味は?」
「雰囲気」
「またですか」
「大事なんだよ、雰囲気も!」
*
最初の木片が入った。
凛は館へ持ち帰って読む。
「橋を直してほしい」
「それは以前もありましたね」
「うん」
次。
「冬に塩が高くなる」
「なるほど」
次。
「家の屋根を直したい」
「これは本人の家ですよね」
「たぶん」
次。
「娘の婿がほしい」
「領主夫人の仕事?」
「違うと思います」
「でも困ってるんだよね」
「そこまで面倒を見るのですか?」
「無理!」
次。
「隣の家の鶏がうるさい」
「知らん!」
「リン」
「はい」
「聞くと言ったのはあなたです」
「そうでした」
木片を戻す。
「でも鶏は自分たちで話し合って!」
*
何日か。
村を変え。
場所を変え。
聞いていった。
回答が増える。
凛が想像していたものもあった。
水路。
橋。
道。
獣。
病気。
税。
道具。
でも。
意外なものも多かった。
「何もない」
凛が読む。
「何もない?」
「困ってること」
「それはよいことでは?」
「うん」
次。
「今のままでいい」
次。
「畑を息子に任せたら釣りをしたい」
「いいね」
次。
「孫が元気ならそれでいい」
次。
「酒がもう少し安いと嬉しい」
「バッカスには見せないでおこう」
「なぜ?」
「増産しろって騒ぐ」
次。
「米は美味しかった。また祭りで食べたい」
「作りたいとは書いてないね」
「はい」
凛は木片を置いた。
「やっぱり」
あの女性だけではない。
米を嫌っているわけではない。
でも。
自分の畑を変えてまで作りたいわけでもない。
「なんでだろ」
「なぜだと思います?」
リゲルが聞く。
「面倒だから?」
「それもあるでしょう」
「知らない作物だから?」
「それも」
「今ので困ってないから?」
「おそらく」
凛は黙った。
今ので困っていない。
その発想。
自分には薄かった。
*
「お方様は?」
突然。
聞き取りを手伝っていた老人に尋ねられた。
「何?」
「お方様は、何が欲しいのです?」
「私?」
「はい」
「今、私の話じゃないよ」
「我々に聞くのですから」
老人は笑う。
「お方様も答えてくだされ」
「ずるいなあ」
凛は考えた。
「米」
「もうございます」
「そうだった」
「酒?」
「ある」
「旦那様?」
「いる」
「家?」
「ある」
「食べ物?」
「ある」
「服?」
「ある」
「では?」
「……何だろ」
本当に。
何だろう。
「学校?」
「それはお方様が通うのですか?」
「違う」
「では、お方様自身は?」
答えられなかった。
*
その夜。
凛は寝台に寝転んでいた。
「欲しいもの」
「まだ考えているのですか?」
「うん」
「何かありました?」
「冷蔵庫」
「何です?」
「食べ物を冷たくしておく箱」
「氷室では?」
「もっと便利」
「なるほど」
「お風呂」
「あります」
「毎日お湯いっぱい使えるやつ」
「できますよ」
「え?」
「望むなら」
「できるの!?」
「薪を大量に使いますが」
「やめとく」
リゲルが笑った。
「ほかは?」
「スマホ」
「すまほ?」
「……説明するの面倒だからいい」
「では?」
凛は天井を見る。
「分かんない」
「そうですか」
「日本にいたころならいっぱいあった」
もっと寝たい。
仕事を減らしたい。
満員電車に乗りたくない。
休みたい。
「仕事辞めたいって、ずっと思ってた」
「そんなに嫌だったのですか?」
「仕事そのものは嫌いじゃなかった」
「では?」
「仕事の仕方が嫌だったのかな」
凛は少し考えた。
「ずっと急かされてた」
期限。
資料。
説明。
会議。
修正。
また説明。
「夜中まで仕事して」
「はい」
「家に帰っても仕事して」
「はい」
「次の日も」
「はい」
「それがずっと続く気がしてた」
午前三時十二分。
あの日。
パソコンの前。
夢の中に猫が現れた。
「逃げたかったのかも」
「こちらへ?」
「うん」
凛は笑った。
「領主夫人なら働かなくていいって思った」
「かなり働いていますね」
「騙された」
「誰に?」
「猫」
「タム様に怒られますよ」
「今度会ったら言う」
しばらく沈黙。
「ねえ、リゲル」
「はい」
「私、日本では」
凛はゆっくり話した。
子供のころ。
血のつながらない両親に育てられたこと。
小さな畑。
酒造り。
農業高校。
大学。
発酵や醸造を学んだこと。
そして。
大学にいたころ。
大きな台風と雨。
家も。
畑も。
両親も。
戻らなかった。
「それで役所に入った」
「なぜ?」
「農家の役に立つ仕事がしたかった」
「そうだったのですか」
「最初はね」
いつの間にか。
書類の向こうに人がいることを忘れそうになった。
農家のための制度。
でも。
自分が見ているのは数字。
予算。
締切。
「ここに来て」
凛は言う。
「畑見たら、何とかしたくなった」
「はい」
「貧しいって聞いたから」
「はい」
「もっと作ればいい」
「はい」
「もっと売ればいい」
「はい」
「もっとお金があればいい」
「はい」
「そう思った」
リゲルは黙って聞いている。
「たぶん私」
凛は小さく息を吐いた。
「昔できなかったことを、ここでやろうとしてたのかもしれない」
「悪いことですか?」
「分かんない」
そこが。
分からない。
「葡萄売れたらマイの家は喜んだ」
「はい」
「学校へ行きたいってマイは言った」
「はい」
「道が開いて喜んだ人もいる」
「はい」
「じゃあ、それはいいと思う」
「私もそう思います」
「でも」
米を作る。
もっと働く。
もっと売る。
もっと豊かになる。
「そこまで、みんなが望んでるとは限らない」
「はい」
リゲルの返事は静かだった。
「最初から知ってた?」
「何を?」
「みんなが今の暮らしをそんなに嫌ってないこと」
「……嫌っていると思ったことがありません」
「言ってよ!」
「聞かれませんでした」
「う」
反論できない。
「それに」
リゲルが続ける。
「リンが始めたことを、私は悪いとは思っていません」
「なんで?」
「葡萄酒で暮らしが楽になった者がいる」
「うん」
「道も開いた」
「うん」
「学校を望む子供もいる」
「うん」
「米を作りたい者も、これから出るかもしれない」
「じゃあ?」
「全員に同じものを与えなくてもよいのでは?」
凛はリゲルを見る。
「全員じゃなくていい?」
「なぜ全員でなければならないのです?」
答えられなかった。
国。
政策。
制度。
そう考えると。
いつも全体を見ていた。
「そっか」
凛は目を閉じた。
「まだ聞こう」
「はい」
「もっと」
「はい」
「私が答え決める前に」
「それがよいでしょう」
凛は笑った。
「幸せって難しいね」
「そうですね」
「リゲルは幸せ?」
「はい」
即答だった。
「早っ」
「リンがいますから」
「……そういうのずるい」
「何が?」
「今、私もって言わなきゃいけなくなる」
「違うのですか?」
「同じ」
凛はリゲルの腕へくっついた。
「そこは同じ」
でも。
同じでなくてもいいこともある。
そのことを。
凛はようやく考え始めていた。




