叔母上の置き土産
「……ここだよね?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
凛はファルコンの上から、目の前の屋敷を見た。
「嘘でしょ」
数日前。
ここには緑があふれていた。
薬草。
果樹。
花。
畑。
小さな精霊たち。
水路には澄んだ水が流れていた。
そして。
年齢不詳の少女の姿をした、リゲルの叔母。
ベガ。
今。
同じ場所にある屋敷は、
古びていた。
壁は色を失い。
庭には草が伸び。
木々の枝も乱れている。
「何年も人が住んでないみたい」
「叔母上の魔力で保たれていたのでしょう」
リゲルの声は硬い。
「ベガさんは?」
「分かりません」
「モモ」
「私も知らない」
モモは不安そうだった。
「こんなの初めて」
「聞いてない?」
「何も」
「出かけるとか」
「ない」
凛は屋敷を見る。
「入ろう」
*
中も変わっていた。
「埃……」
数日前まで使われていた食卓。
酒を飲んだ部屋。
ベガが座っていた椅子。
どれも。
長い年月を経たように見える。
「魔法が解けたら、本来の時間に戻った?」
「おそらく」
リゲルが答える。
「ベガさん自身は?」
「……分かりません」
モモが奥へ走った。
「ベガ様!」
「モモ!」
凛たちも追う。
寝室。
いない。
書斎。
いない。
庭。
いない。
「どこ行ったの」
モモの声が震えている。
「大丈夫」
凛はモモの肩へ手を置いた。
「まだ、いなくなったって決まったわけじゃない」
「でも」
「探そう」
「うん」
そのとき。
「リン様」
ベテルが呼んだ。
「何?」
「こちらを」
屋敷の奥。
前に来たときには気づかなかった扉があった。
「こんなのあった?」
「ございました」
「入った?」
「いいえ」
扉には大きな錠。
「鍵は?」
「見当たりません」
「壊す?」
「待ってください」
リゲルが扉へ手を触れる。
淡い光。
だが。
「開きません」
「魔法?」
「神殿とは違う力です」
凛は扉を見る。
そのとき。
背中が熱くなった。
「え?」
持ってきた弓。
神殿で使った、あの弓。
「何で?」
凛が手に取る。
弓が淡く光っている。
「撃てってこと?」
「誰に聞いているのです?」
「弓」
「答えるのですか?」
「答えない」
「では」
「でも」
凛は錠を見る。
「たぶん、これ」
「リン」
「離れて」
「待ってください!」
矢をつがえる。
「壊したらベガさんに謝る!」
「そういう問題では――」
放つ。
乾いた音。
錠が砕けた。
「……当たった」
「そこですか?」
「久しぶりだから」
「神の弓で叔母上の錠を壊した者は、リンが初めてでしょうね」
「名誉なのかな」
「違うと思います」
*
扉の向こうは。
暗い通路だった。
「地下?」
「下ってるね」
モモが先へ行こうとする。
「待って」
「でも」
「一緒に」
灯りを持つ。
階段を下りる。
しばらく進む。
「長くない?」
「うん」
「山の中だよね」
「たぶん」
そして。
前方に光。
「出口?」
外へ出た。
「……え?」
凛は動けなくなった。
山の反対側。
巨大な谷。
そこに。
水。
畑。
いや。
「田んぼ……?」
段々に広がる水田。
何十枚。
何百枚。
もっと。
谷底には大きな湖。
そこから水路が伸びている。
「嘘」
凛は走った。
「リン!」
畦へ降りる。
しゃがむ。
土を見る。
水を見る。
そして。
残っていた穂を手に取った。
「これ」
指が震える。
「これ……」
「何です?」
リゲルが追いつく。
「米」
「こめ?」
「米!」
凛が叫んだ。
「米だーっ!」
谷に声が響いた。
『うるさい!』
シロイチの声が遠くから返ってきた。
「米!」
『聞こえた!』
「お米!」
『だから聞こえている!』
「ご飯!」
『知らん!』
「おにぎり!」
『もっと知らん!』
凛は穂を抱えた。
「生きててよかった!」
「一度死んでおりますが」
「今それ言わないで!」
*
「本当に食べられるの?」
モモが穂を見る。
「食べられる!」
「どうやって?」
「炊く!」
「たく?」
「水入れて煮る!」
「では普通の穀物では?」
「違う!」
「何が?」
「全然違う!」
凛は興奮していた。
「白いご飯!」
「白い?」
「おにぎり!」
「さっき言ってた」
「お粥!」
「それは分かるかも」
「餅!」
「何それ」
「煎餅!」
「何それ」
「日本酒!」
バッカスが反応した。
「酒?」
「食いついた!」
「その米とやらで酒ができるのか!」
「できる!」
「造ろう!」
「急に仲間になった!」
「今すぐ造ろう!」
「まだ収穫もしてない!」
モモが呆れる。
「二人とも同じ顔してる」
「誰と!」
「誰とだ!」
「ほら」
*
水田の脇に、小さな建物があった。
中には農具。
籠。
そして。
「木片」
凛が取る。
文字が書かれている。
「ベガさん?」
「叔母上の字です」
リゲルが読む。
「何て?」
「リンへ」
「私?」
リゲルが続ける。
「これを見つけたということは、私はもうここにはいないでしょう」
モモが俯く。
「どこ行ったの」
「続きます」
――この田は、ずっと昔から私が守ってきたもの。
――人の国では、ほとんど作られなくなった穀物を残してあります。
「米」
凛が呟く。
――あなたなら使い道を知っているかもしれない。
――知らなくても、勝手に考えるでしょうけど。
「分かってるなあ」
――水路も湖も、そのまま使えます。
――種も残してあります。
――モモなら、この土地の扱い方を少し知っています。
モモが顔を上げる。
「私?」
「知ってるの?」
「畑があるのは知ってた。でも、こんなに広いなんて」
リゲルが最後を読む。
――私は、行かなければならないところへ行きます。
――ずっと、行くべきだと思っていた場所へ。
――あの人が一人で背負っているものを、少しくらい一緒に持ってあげようと思います。
凛は息を止めた。
「魔王」
リゲルは何も言わない。
ベガが愛した男。
人間の敵。
そして。
終わらない役目を背負わされた者。
「ベガさん、魔王のところ行ったんだ」
「おそらく」
モモが俯いた。
「勝手だよ」
「うん」
「何も言わないで」
「うん」
「私には外を見ろって言ったくせに」
「うん」
凛はモモの隣へ座った。
「怒っていいと思う」
「うん」
「帰ってきたら怒ろう」
「……うん」
「私も一緒に怒る」
「なんでリンが?」
「何も説明しないで田んぼ押しつけられた」
モモが吹き出した。
「そこ?」
「こんな広いんだよ!」
「リン、喜んでたじゃん」
「それとこれとは別!」
*
凛はもう一度、谷を見た。
水田。
湖。
水路。
種籾。
「これだけあれば」
頭の中で計算が始まる。
「増やせる」
「何を?」
「米」
「食べたいから?」
「それもある!」
「やっぱり」
「でも」
凛は田を見る。
「小麦だけじゃなく、作物の種類が増える」
水の多い土地。
小麦に向かない場所でも作れる。
「収穫が増える」
「はい」
「食べ物が増える」
「はい」
「余れば売れる」
「はい」
「加工もできる」
餅。
酒。
保存食。
「農家の収入も増える」
「学校にも?」
モモが聞く。
「もちろん!」
凛の目が輝いた。
「これならもっと早くできる!」
「何が?」
「学校!」
葡萄酒だけではない。
米。
新しい作物。
新しい加工品。
収入。
食料。
「すごいよ」
凛はリゲルを見る。
「アンジェル、もっと豊かにできる!」
リゲルはすぐには答えなかった。
「何?」
「いえ」
「できるよね?」
「できるかもしれません」
「でしょう!」
凛はもう水田へ目を戻していた。
誰が作るか。
どこへ広げるか。
種籾をどう増やすか。
水路。
人手。
収穫。
「まず試験栽培」
木片を出す。
「それから種を増やして」
書く。
「来年はもっと広げる」
書く。
「何年かしたら、領内でも」
「リン」
「何?」
「楽しそうですね」
「楽しい!」
即答だった。
「だって」
凛は広がる田を指した。
「これだけ食べ物が作れるんだよ!」
ベガから聞いた魔王の話も頭をよぎる。
食べ物を奪い合う。
土地を奪い合う。
それが少しでも減るなら。
「やるよ」
凛は言った。
「みんなで米を作ろう」
そのときの凛は、
まだ一つだけ、
確かめていなかった。
**みんなが米を作りたいのか。**
そのことを。




