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アンジェル酒造

「ない!」


 朝からモモの声が館に響いた。


「何が?」


 凛が走っていく。


「昨日の三番!」


「三番?」


「地下に置いてた壺!」


「ああ、あれ」


「半分になってる!」


「え?」


 二人で地下倉庫へ駆け込む。


 並んだ壺。


 その一番奥。


 確かに。


「……減ってる」


「でしょ!」


「漏れた?」


「漏れてない」


「蒸発?」


「一晩で半分も?」


「しないね」


 二人は顔を見合わせた。


「バッカス!」


 声が重なった。


     *


「知らんな」


 バッカスは中庭で寝ていた。


「口の周り赤いけど」


「生まれつきだ」


「昨日は赤くなかった!」


「気のせいだ」


「息吐いて」


「なぜだ」


「いいから」


「断る」


「ジェネ!」


「はい」


「押さえて!」


「お方様、私は護衛です」


「じゃあ護衛して!」


「何から?」


「ワイン泥棒!」


「誰が泥棒だ!」


 バッカスが飛び起きた。


「証拠はあるのか!」


「ある!」


「どこだ!」


「口!」


「これが証拠になるか!」


「じゃあ飲んでない?」


「飲んでいない!」


「本当に?」


「当然だ!」


 凛は頷いた。


「分かった」


「分かればよい」


「じゃあ契約違反じゃないね」


「……」


「勝手に商品飲んだら、物を奪ったことになるよね」


「……」


「神様の前で誓ったよね」


「……」


「リゲル呼ぶ?」


「待て」


「何?」


「話し合おう」


「飲んだんじゃん!」


「味を確認しただけだ!」


「壺半分も!?」


「重要な確認だった!」


 モモが拳を握った。


「殺す」


「待ってモモ!」


「この酒飲み!」


「酒を愛する者と言え!」


「同じ!」


「違う!」


 凛は頭を抱えた。


「先が思いやられる……」


『だからやめておけと言った』


 塀の上からシロイチ。


「シロイチは黙ってて」


『俺は勝手に肉を食ったことなどないぞ』


「意外と真面目だね」


『契約だからな』


「バッカス、聞いた?」


「鳥と一緒にするな!」


『誰が鳥だ!』


「もう朝からうるさい!」


     *


 バッカスには罰として、その日一日、酒の試飲を禁止した。


「横暴だ!」


「勝手に飲んだ人が悪い!」


「仕事にならん!」


「匂いだけ嗅いで!」


「拷問か!」


「自業自得!」


 だが。


 問題は笑い事ではなかった。


 酒を売る。


 そう決めた。


 なら、毎回味が違っては困る。


 一壺だけ美味しいものができても商売にはならない。


「同じものを、何回も作れるようにしないと」


 凛は木片を並べた。


 葡萄の種類。


 収穫した場所。


 状態。


 量。


 仕込んだ日。


 置いた場所。


 壺。


「多いね」


 モモが覗き込む。


「本当はもっと記録したい」


「もっと?」


「温度とか」


「温度?」


「暑い、寒いを数字で」


「そんなことできるの?」


「私の国では」


「またそれ」


「便利だったんだよ」


 温度計がない。


 糖度計もない。


 時計さえ大雑把。


 だが。


「ないもの数えてもしょうがない」


 凛は地下倉庫を歩く。


「ここが一番涼しい」


「うん」


「奥と入り口で違う?」


「少し」


「じゃあ場所も記録」


「どうやって?」


「番号振る」


 柱に一。


 次に二。


 三。


「壺にも番号」


「文字じゃなくて?」


「番号なら誰でも確認しやすい」


 モモが頷く。


「なるほど」


「それから勝手に動かしたら怒る」


「誰に言ってるの?」


 二人の視線がバッカスへ向く。


「俺を見るな!」


     *


 問題は酒だけではない。


「葡萄が足りなくなる?」


 凛は農家から集めた量を見て呟いた。


「本格的に造るなら」


 リゲルが答える。


「今まで捨てていた分だけでは、いずれ足りなくなるでしょう」


「だよね」


「葡萄畑を増やしますか?」


「待って」


「なぜです?」


「まだ売れるか分かんない」


 凛は即答した。


「売れるか分からないもののために、農家へ畑を増やせって言えない」


「なるほど」


「まず今ある分」


 捨てていた葡萄。


 今まで普通に売っていた葡萄。


 その一部。


「買う値段も決めないと」


「捨てていたものなら、安くてよいのでは?」


「うーん」


 凛は考えた。


「最初はそうかもしれないけど」


 価値が出れば。


 欲しい人が増えれば。


 値段も変わる。


「私たちだけ得するのは嫌だな」


「では、農家と相談しますか?」


「うん」


 凛は笑った。


「それが一番いい」


     *


 マイの家を訪れると。


「お酒になったの?」


 マイが真っ先に聞いた。


「なった!」


「美味しい?」


「なった!」


「同じ答え」


「美味しいのもできた!」


「じゃあ売れる?」


「これから」


「お父さん帰ってくる?」


 やはり。


 そこへ行く。


 凛はしゃがんだ。


「まだ分からない」


「うん」


「でもね」


 今度は、前より少しだけ先の話ができる。


「葡萄を買わせてほしい」


「腐ったの?」


「そう」


 マイの祖父が出てきた。


「本当に、あれを?」


「はい」


「捨てていたものですよ」


「でも、うちには必要になった」


「では差し上げます」


「それは駄目」


「なぜです?」


「これでお酒を造って売るから」


 凛は葡萄畑を見る。


「私たちが儲けるなら、作った人にも払う」


「しかし」


「お願いします」


 領主夫人から「お願いします」と言われ。


 老人が困った顔をした。


「値段は?」


「それを相談したい」


「我々と?」


「はい」


「お方様がお決めになれば」


「それが嫌なの」


 凛は苦笑した。


「私、相場知らないから」


「そうなのですか?」


「知らない」


 きっぱり言った。


「だから教えて」


 普通の葡萄はいくらで売るのか。


 収穫にどれほど手がかかるのか。


 傷んだ葡萄を選別する手間は。


 運ぶのは誰か。


 話していく。


 凛一人では分からないことばかりだった。


「役所にいたときと同じだなあ」


「やくしょ?」


「昔の仕事」


「お方様も誰かに聞いてたの?」


 マイが尋ねる。


「聞いてたよ」


「何を?」


「分からないこと」


「お方様なのに?」


「お方様だからって何でも知ってたら怖いでしょ」


「そうかな」


「そうだよ」


 マイが笑った。


     *


 その日の夕方。


 凛は一枚の木片を見ていた。


 そこには。


 葡萄を持ち込んだ家。


 量。


 仮に決めた値段。


 それが並んでいる。


「これでいいかな」


「最初としては」


 リゲルが答えた。


「最初?」


「売れれば、また考えればよいでしょう」


「売れなかったら?」


「それもまた考えれば」


「リゲル、最近私に似てきた?」


「それは困ります」


「ひどい!」


 リゲルが笑った。


「でも」


 凛は木片を見る。


「これ、私一人じゃできないね」


「酒造りですか?」


「全部」


 葡萄を育てる人。


 運ぶ人。


 モモ。


 バッカス。


 ジェネ。


 リゲル。


 シロイチ。


「私、何してるんだろ」


「一番騒いでいます」


「それ仕事じゃない!」


「では」


 リゲルが少し考えた。


「人を集めている」


「人?」


「リンが葡萄を見つけた」


「うん」


「モモを連れてきた」


「ベガさんがくれたんだけど」


「バッカスを連れてきた」


「あれは拾った」


「魔を拾わないでください」


「はい」


「農家から葡萄を買う仕組みを考えた」


「うん」


「シロイチに畑仕事をさせた」


『忘れていなかったか!』


「盗み聞きしない!」


『聞こえるのだ!』


 リゲルが続ける。


「リンは、自分で全部できる必要はないのでは?」


「……そうかな」


「私は酒を造れません」


「うん」


「ジェネも」


「たぶん」


「シロイチも」


『造れるかもしれん!』


「飲めないでしょ」


『そうだった』


「でも、それぞれできることがあります」


 リゲルは木片を一枚取った。


「リンは、それをつなげている」


 凛は黙った。


「それって」


 少し考える。


「調整?」


「何です?」


「いや」


 笑った。


「昔の仕事でもやってた」


 農家。


 役所。


 企業。


 政治家。


 研究者。


 あちらの要望。


 こちらの事情。


 会議。


 資料。


 調整。


 嫌になるほどやった。


「一番嫌いだった仕事かも」


「そうなのですか?」


「うん」


 でも。


 ここでは。


 葡萄を作った人の顔が見える。


 酒を造る人も。


 その金で学校へ行けるかもしれない子供も。


「……ちょっと違うな」


「何が?」


「同じことしてるのに」


 凛は木片を並べ直した。


 農家。


 酒。


 道。


 ミルン。


 学校。


「誰のためにやってるか分かる」


 それだけで。


 仕事の見え方が違った。


     *


 数日後。


 最初の商品用の酒ができた。


 十二本。


「少なっ!」


 凛が言った。


「試しです」


 モモが答える。


「百本くらい作ろうよ」


「売れなかったら?」


「……十二本でいいです」


「よろしい」


 バッカスが一本を取る。


「では品質確認を」


「戻せ!」


「必要な仕事だ!」


「さっき飲んだでしょ!」


「あれは壺からだ!」


「同じ!」


「瓶に入れば味が変わるかもしれん!」


「変わらない!」


「なぜ分かる!」


「分かる!」


「科学的ではないぞ!」


「どこで覚えた、その言葉!」


「お前だ!」


 モモが瓶を取り返す。


「二杯って決めたでしょ」


「今日の二杯は終わった」


「じゃあ明日」


「今飲みたい」


「子供か!」


 凛は笑いながら十二本を眺めた。


 たった十二本。


 学校を作るには、あまりに少ない。


 紙を買えば消えてしまう程度かもしれない。


 それでも。


 ゼロではなくなった。


「名前どうする?」


 モモが聞く。


「名前?」


「お酒の」


「あ」


 考えていなかった。


「アンジェルワイン」


「そのまま」


「分かりやすいでしょ」


「もう少し何かないの?」


「じゃあ……マイ」


「女の子の名前?」


「それは駄目か」


 本人に聞いてもいない。


「アンジェルの雫」


 ジェネが言った。


 全員がジェネを見る。


「何です?」


「ジェネ」


「はい」


「意外と詩人」


「悪いですか!」


「それにしよう!」


「本気ですか?」


「いいじゃん」


 モモも頷く。


「きれい」


 バッカスが一本を見る。


「酒は名前で飲むものではない」


「じゃあ飲まなくていいよ」


「良い名前だ!」


「変わった!」


 こうして。


 アンジェルで初めて売り物として造られた葡萄酒は、


 **『アンジェルの雫』**


 と名づけられた。


 十二本。


 売れる保証などない。


 けれど。


 その十二本を積んだ荷車が、


 数日後。


 バッカスが塞いでいた山道を通り、


 ミルンへ向かうことになった。


 学校へ続く道が、


 ようやく国境を越えようとしていた。


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