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バッカス

「働かん」


「じゃあ飲ませない」


「奪う」


「ベテル」


「承知しました」


「待て!」


 交渉開始から半刻。


 話はほとんど進んでいなかった。


「お前たちは卑怯だ!」


「道を塞いで酒奪ってた人に言われたくない!」


「俺は魔だ!」


「威張るところじゃない!」


「酒をよこせ!」


「働け!」


 ジェネがついに座り込んだ。


「もうどちらでもよいので決めてください」


「ジェネ、諦めないで」


「誰のせいですか!」


 ベテルだけは平然としている。


 シロイチは木の上から見物。


『無駄だ』


「何が?」


『そいつは昔から酒のことしか考えていない』


「詳しいね」


『有名だと言っただろう』


「魔の間でも?」


『酒を持っていると奪われる』


「人間も魔も同じ被害受けてるじゃん!」


『だから嫌われている』


「おい、シロイチ!」


『事実だ!』


 バッカスが睨む。


 凛は腕を組んだ。


「ますます放置できないな」


「なぜそうなる」


「みんな困ってるから」


「俺は困っていない」


「でも」


 凛は葡萄酒の壺を指した。


「これ飲みたいんでしょ?」


 バッカスが黙る。


「今まで飲んだことない味だった?」


「……まあな」


「もっと美味しくなるよ」


「本当か?」


「たぶん」


「たぶん?」


「まだ試作だから」


「完成していないのか!」


「だから人手が欲しい」


「俺を働かせるために嘘を」


「嘘じゃない」


 凛は失敗作を差し出した。


「こっちと比べて」


「さっき飲んだ」


「もう一回」


「よこせ」


「はい」


 飲む。


「どう?」


「まずい」


「どこが?」


「香りが薄い。酸っぱい。あと変な苦味が残る」


「こっちは?」


 売れそうな方。


 飲む。


「甘味がある。香りも強い。だが」


「だが?」


「まだ何か足りん」


「何?」


「知らん」


「そこを一緒に探すの!」


「なぜ俺が!」


「飲みたいから!」


「……」


 バッカスが止まった。


 凛は畳みかける。


「美味しい酒を飲みたい?」


「飲みたい」


「じゃあ美味しい酒を造る」


「お前が造れ」


「私だけじゃできない」


「モモという奴がいるのだろう」


「いる」


「そいつにやらせろ」


「モモは甘いものも作るから忙しい」


「知らん」


「それに」


 凛はにやりとした。


「バッカスの方が酒の味にはうるさそう」


「当然だ」


 胸を張った。


「じゃあ必要」


「……」


 シロイチが翼で顔を覆った。


『馬鹿だ』


「誰がだ!」


『お前だ』


「殺すぞ!」


『働く前から同僚を殺すな!』


「誰が同僚だ!」


「ほら、もう職場になじんでる」


「なじんでいない!」


     *


 結局。


 条件が決まったのは、日が傾き始めたころだった。


 一つ。


 山道を塞がない。


 一つ。


 通行人から酒や物を奪わない。


 一つ。


 女性を勝手に引き止めない。


 一つ。


 アンジェルで葡萄酒造りを手伝う。


 一つ。


 仕事として必要な試飲は認める。


 一つ。


「完成品を毎日一壺」


「却下」


「では半壺」


「却下」


「一杯」


「それなら」


「少ない!」


「仕事終わった後に一杯」


「三杯」


「一杯」


「二杯」


「……二杯」


「よし」


「また負けた気がする」


 凛が呻く。


「リン様」


 ジェネが真顔で言った。


「酒の量より大事なことがございます」


「何?」


「この者を、本当に館へ連れて帰るのですか?」


「うん」


「魔ですよ?」


「シロイチも」


『俺を一緒にするな!』


「お前も魔だろ!」


「ほら仲良し」


『違う!』


「違う!」


 今度は二人が重なった。


「大丈夫」


 凛は言った。


「信用してるわけじゃない」


 バッカスが凛を見る。


「へえ」


「何?」


「俺を雇うと言っておきながら、信用しないのか」


「しないよ」


「ずいぶん正直だな」


「シロイチだって最初は信用してなかった」


『今は?』


「七割」


『十割にしろ!』


「残り三割は肉のために裏切るかもしれない」


『裏切らん!』


「じゃあ八割」


『増え方が少ない!』


 凛は笑った。


「信用って、後からできるものでしょ」


 働く。


 約束を守る。


 また働く。


「それ見て決める」


「俺が約束を破ったら?」


「ベテル」


「承知しました」


「なぜすぐそいつを見る!」


「一番強そうだから」


「やはり卑怯だ!」


「適材適所!」


     *


 問題はもう一つあった。


「契約が必要です」


 ベテルが言った。


「シロイチと同じ?」


「似たものです」


 神殿へ戻ってから。


 神の前で誓わせる。


 人を襲わない。


 アンジェルの民へ害をなさない。


 仕事を放棄して暴れない。


「嫌だと言ったら?」


「山へ戻す?」


「それでは道がまた塞がれます」


「じゃあ倒す?」


 凛が聞く。


 ベテルはバッカスを見る。


「必要なら」


 空気が少し冷えた。


「……分かった」


 バッカスが言った。


「え?」


「誓えばいいのだろう」


「いいの?」


「酒がある」


「そこまで好き?」


「お前には分からん」


「まあ、好きなものあるのはいいことだけど」


 バッカスは荷車へ乗った。


「何してるの?」


「帰るのだろう?」


「歩いて」


「嫌だ」


「荷物乗せるから!」


「俺も荷物だ」


「自覚あるんだ!」


     *


 アンジェルへ戻ったのは翌日の昼だった。


 館の門。


 そこに。


 リゲルが立っていた。


「あ」


 凛が止まる。


「怒ってる?」


「怒っています」


「ですよね」


「リン」


「はい」


「私は、行ってはいけないと言いましたね」


「はい」


「リンは、行かないと言いましたね」


「……はい」


「では、なぜ山から帰ってくるのです?」


「不思議だね」


「リン」


「ごめんなさい」


 即座に頭を下げた。


「二度としません」


「本当ですか?」


「努力します」


「約束してください」


「それはちょっと」


「リン」


「ごめんなさい!」


 その後ろ。


 バッカスが荷車から顔を出した。


「おい」


 リゲルの目がそちらへ向く。


「誰です?」


「えーっと」


 凛は笑った。


「新しい人材?」


「魔ですね」


「はい」


「また?」


「はい」


 リゲルが目を閉じた。


「リン」


「はい」


「私は、魔を拾ってきてはいけないとは言いませんでした」


「そう!」


「次から言います」


「そこ追加するの!?」


     *


 神殿での誓約は、意外なほど簡単だった。


 バッカスが神前に立つ。


 リゲルが言葉を読み上げる。


 アンジェルの民を害さない。


 道を妨げない。


 物を奪わない。


 自ら結んだ約束を守る。


「誓いますか?」


「酒は?」


「バッカス!」


「確認だ!」


「仕事したら二杯!」


「……誓う」


 淡い光がバッカスを包んだ。


 腕に小さな印が浮かぶ。


「これで?」


「故意に誓約を破れば、力が大きく制限されます」


 リゲルが説明した。


「死ぬ?」


「いいえ」


「よかった」


「なぜお前が安心する」


「死ぬ契約だったら嫌だから」


「俺は魔だぞ」


「知ってる」


「お前を襲った」


「うん」


「それでも?」


「働くって決めたんでしょ」


 バッカスは何も言わなかった。


     *


「で」


 夕方。


 モモが腕を組んでいた。


「これがバッカス?」


「そう」


「酒飲み」


「誰が酒飲みだ」


「酒飲みでしょ」


「酒を愛していると言え」


「同じ」


「違う!」


 凛は二人を見比べた。


「仲良くできそう」


「無理」


「断る」


 また重なった。


「ほら」


「どこが!」


 モモが試作品を差し出す。


「飲んで」


「よこせ」


「全部飲んだら殺す」


「物騒!」


 凛が止める。


 バッカスは一口。


 目を閉じた。


「どう?」


「悪くない」


「どこが悪い?」


「香り」


「やっぱり?」


「あと、甘さの後に残る味」


「壺かな」


「置き場所かもしれん」


 モモが答える。


「じゃあ二つに分けよう」


「こっちは地下」


「こっちは倉庫」


「葡萄も同じにする?」


「そうしよう」


 凛は黙って二人を見た。


「何だ」


「何?」


 二人が同時に振り向く。


「いや」


 凛は笑った。


「もう仕事してるなあって」


「してない!」


「してない!」


「息ぴったり」


「違う!」


     *


 数日後。


 山道を、一台の荷車が通った。


 酒は積んでいない。


 女性も乗っていた。


 何も起きなかった。


 次の日。


 もう一台。


 その次の日。


 商人。


 農家。


 旅人。


 少しずつ。


 道に人が戻ってきた。


「開いた」


 凛は地図の山道へ線を引いた。


「うん」


 モモが頷く。


「これでミルンへ運べる」


「ワインを」


「うん」


「売れたら」


「葡萄を買える」


「農家にお金が入る」


「学校にも回せる」


「紙も買える」


「本も」


 凛は笑った。


「やっと戻ってきた」


「どこに?」


「学校」


 ずいぶん遠回りした。


 魔と戦った。


 魔を雇った。


 ワインを造った。


 道まで開けた。


 それでも。


 始まりは一人の少女だった。


 父親から届いた手紙を、


 自分で読みたいと言った少女。


「よし」


 凛は立ち上がった。


「次は売るよ」


「ワインを?」


「そう」


「売れるかな」


「売る!」


 凛の声が館に響く。


 その向こうから。


「その前に試飲だ!」


 バッカスの声。


「仕事しろ!」


「している!」


「それ瓶一本持ってるでしょ!」


「資料だ!」


「飲む資料なんかあるか!」


「ここにある!」


 モモが走っていく。


「待てーっ!」


「来るな!」


 凛は笑った。


 学校を作るための酒造りは、


 ようやく、


 酒を造るところから――


 酒を売るところへ進もうとしていた。


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