魔王と叔母上
「魔王にも、別の生き方があるかもしれない」
ベガはそう言った。
凛はしばらく黙っていた。
「……それ、本人に聞いたの?」
「ええ」
「会ったことあるんだ」
「あるわ」
「どこで?」
「ここ」
「ここ!?」
凛は思わず立ち上がった。
「この庭に魔王来たの?」
「何度も」
「何度も!?」
「うるさいわね」
「だって魔王だよ!」
「座りなさい」
「はい」
凛は座り直した。
向かいにはベガ。
少し離れてリゲルとジェネ。
モモは新しく仕込んだ葡萄酒を見ている。
ベテルだけは立ったままだった。
シロイチは木の枝。
『何を驚いている』
「驚くでしょ!」
『魔王様はどこにでも現れる』
「そうなの?」
『我らの王だぞ』
「じゃあシロイチも会ったことある?」
『当然だ』
「どんな人?」
『偉大なお方だ』
「それじゃ分かんない」
『人間ごときに説明できるか!』
「草取りしてるくせに」
『それを言うな!』
「静かにしなさい」
ベガの一言で、二人とも黙った。
「なんで私まで」
「リン」
「はい」
*
「私が魔王に初めて会ったのは、十六のとき」
ベガが話し始めた。
「今と変わらないじゃん」
「今の見た目が十六くらいだから」
「何年前?」
「聞かない方がいいわよ」
「聞きたい」
「殺すわよ」
「やめときます」
リゲルが小さくため息をついた。
「叔母上は、父より年上です」
「え?」
凛がリゲルを見る。
「妹じゃなかった?」
「妹です」
「じゃあなんで」
「父が亡くなった年齢より、今の叔母上の方が上という意味です」
「ああ」
凛はもう一度ベガを見る。
「本当に若作――」
「次に言ったら山から落とすわよ」
「言ってません」
「言いかけた」
ベガは話を戻した。
若いころ。
彼女はアンジェルの神殿で神に仕える者だった。
リゲルと同じ一族。
神の声を聞く力も強かった。
「ある日、山で魔に襲われたの」
「それで魔王が?」
「違う。私が倒した」
「強いじゃん」
「当たり前でしょう」
「じゃあ魔王いらないじゃん」
「その後よ」
倒れた魔を調べていると。
一人の男が現れた。
黒い髪。
旅人のような格好。
武器も持っていなかった。
「怪しい」
「怪しかったわ」
「それで?」
「斬りかかった」
「ベガさんの方から!?」
「魔だと分かったから」
「分かるの?」
「私はね」
ところが。
剣は届かなかった。
男は避けもしなかった。
ベガの剣が、その身体へ触れる寸前で止まった。
「魔法?」
「そんなものね」
「それが魔王?」
「ええ」
「最初になんて言ったの?」
ベガは少し考えた。
「確か――」
口元がわずかに緩む。
「『いきなり斬る女があるか』」
「普通だ」
「私も『魔王が普通に歩いているな』って返した」
「ベガさんたちらしい気がしてきた」
「何よ、それ」
*
魔王はベガを殺さなかった。
ベガも魔王を倒せなかった。
それから。
何度か会うようになった。
「なんで?」
「私が探したから」
「魔王を?」
「そう」
「危ないよ」
「あなたに言われたくないわ」
「確かに」
凛は引き下がった。
「知りたかったの」
ベガの声から笑いが消えた。
「なぜ魔王が、人を襲わせるのか」
神から伝わっていた話は知っていた。
人間が増えた。
土地を奪い合った。
食べ物を奪い合った。
国同士が争った。
神は、人間同士の争いを減らすために共通の敵を作った。
そして。
人が増えすぎないようにする役目も与えた。
それが魔王。
「ひどい話」
凛が呟いた。
「神様が?」
「どっちも」
人間も。
神も。
「でも」
凛は首を傾げる。
「人間が喧嘩するから魔王作ったって、根本的に解決してなくない?」
「してないわ」
「即答」
「神だって万能じゃないもの」
「神様なのに?」
「神だから何でもできると思わない方がいいわ」
ベガは空を見た。
「世界を作ることと、そこで生きる者すべてを思い通りにすることは別なの」
「……子育てみたい」
全員が凛を見る。
「何?」
「いや、作ったからって思い通りにはならないって意味」
「子供を作ったこともないくせに」
「たとえ!」
ベガが笑った。
「でも、近いかもしれないわね」
一度生まれたものには意思がある。
人間にも。
魔にも。
魔王にも。
「神様は魔王を作った」
「ええ」
「でも魔王は、神様の操り人形じゃない」
「そう」
「命令に逆らえる?」
「完全には無理」
「完全には?」
「役目そのものからは逃げられない」
人間の敵。
人間が増えすぎることを防ぐ。
その役目は、魔王という存在そのものに刻まれている。
「じゃあ可哀想じゃん」
凛は思わず言った。
ベガの目が、凛へ向いた。
「そう思う?」
「だって本人がやりたくなくてもやらなきゃいけないんでしょ?」
「そうね」
「転職できないの?」
「てんしょく?」
「仕事変えること」
「できないわ」
「ブラック企業じゃん」
「何それ」
「すっごく働かせる悪いところ」
『魔王様を侮辱するな!』
「魔王じゃなくて神様の方!」
『それも駄目だ!』
「じゃあ誰に文句言えばいいの!」
『知らん!』
ベガが声を上げて笑った。
*
「魔王も、同じことを言ったわ」
「え?」
「誰に文句を言えばいいんだ、って」
凛の顔から笑いが消えた。
「本人が?」
「ええ」
ベガが魔王と何度も話すうちに。
分かったことがあった。
魔王は、人間を憎んでいるわけではなかった。
好きでもない。
守りたいわけでもない。
ただ。
「疲れていた」
ベガが言った。
「魔王が?」
「ええ」
「何に?」
「自分の役目に」
人間が増える。
魔を動かす。
人間と戦う。
人間が減る。
しばらく平穏になる。
また増える。
また戦う。
「ずっと?」
「ずっと」
「何年?」
「私にも分からないほど」
凛は何も言えなくなった。
仕事。
終わらない仕事。
片づけても。
次の日にはまた積まれる。
解決したと思っても。
別の問題が出る。
午前三時。
机。
書類。
メール。
少しだけ。
思い出した。
「……それ嫌だなあ」
「でしょう?」
「私、数年で嫌になったのに」
「魔王はもっと長いわ」
「辞められない」
「ええ」
「逃げられない」
「ええ」
「最悪じゃん」
『魔王様は偉大なのだ!』
シロイチが言う。
「偉大なのと、しんどいのは別でしょ」
シロイチが黙った。
*
「それで」
凛はベガを見る。
「ベガさん、魔王とどうなったの?」
「好きになった」
「いきなり!」
「いきなりじゃないわよ」
「話が三段くらい飛んだ!」
「何度も会ったと言ったでしょう」
「そこ詳しく!」
「嫌よ」
「なんで!」
「恥ずかしいから」
「ベガさんでも恥ずかしいことあるんだ」
「本当に山から落とすわよ」
「ごめんなさい」
ベガは少しだけ頬を赤くした。
十六歳だった。
魔王は敵だった。
それでも。
会って。
話して。
喧嘩して。
また会った。
「気づいたら好きになっていた。それだけ」
「魔王も?」
「さあ」
「聞かなかったの?」
「聞いたわよ」
「なんて?」
「秘密」
「そこまで話して秘密なの?」
「秘密」
凛は不満だったが。
ベガの表情を見て、それ以上聞かなかった。
「そのせいで」
ベガが自分の手を見る。
「私は今も、この姿なの」
「魔王の魔力?」
「そう」
深く関わりすぎた。
魔王の力がベガへ流れ込んだ。
身体の時間が、ほとんど進まなくなった。
「不老不死?」
「違う」
「死ぬ?」
「死ぬわよ」
「老けないだけ?」
「少しは老いると思うけど」
「やっぱり若作――」
「リン」
「何も言ってません」
*
「でも」
凛は最初の話へ戻った。
「それと、私が農業やることがどうつながるの?」
「ようやく戻ったわね」
「話したのベガさんでしょ」
「そうだった」
ベガは庭を見た。
「魔王の役目は、人を減らすことだけじゃない」
「うん」
「人間同士が、土地や食べ物を奪い合うのを抑えることでもある」
「共通の敵になる」
「そう」
「でも、それって」
凛は考える。
「食べ物が足りれば、一つ減る?」
「何が?」
「争う理由」
土地そのものを欲しがることはある。
金。
権力。
恨み。
人が争う理由など、いくらでもある。
でも。
「食べるものがないから、隣の畑を奪う」
「ええ」
「それは減らせるかもしれない」
「そうね」
「同じ畑から、今よりたくさん取れれば」
「ええ」
「保存できれば」
「ええ」
「売れるものを作って、足りないものを買えれば」
「ええ」
凛の頭の中で。
葡萄。
ワイン。
畑。
学校。
そして魔王。
今まで別々だったものが、一本につながっていく。
「それで魔王の仕事がなくなる?」
「そこまで簡単じゃない」
「だよね」
「人が豊かになれば、もっと増えるかもしれない」
「うん」
「争いが全部なくなるわけでもない」
「うん」
「魔王の役目そのものが消えるとも思えない」
「じゃあ」
「でも」
ベガが凛を見る。
「今までとは違う道ができるかもしれない」
「違う道?」
「人間を減らすことでしか均衡を保てなかった世界が」
風が葡萄の葉を揺らす。
「人間が工夫することで、少し違う均衡を作れるかもしれない」
凛は黙った。
大きすぎる。
「私、そこまで考えてないよ」
「知ってる」
「学校作りたいだけ」
「それも知ってる」
「マイが手紙読みたいって」
「聞いたわ」
「ワイン売れたらいいなって」
「ええ」
「魔王救うとか無理」
「誰も救えとは言ってないわ」
「じゃあ何?」
「そのままやればいい」
「何を?」
「あなたが今やっていることを」
捨てていた葡萄を使う。
畑仕事を少し楽にする。
収入を増やす。
子供が学べる時間を作る。
「そんなので?」
「世界が変わるかどうかなんて、私にも分からない」
「無責任」
「あなたに言われたくない」
「確かに」
二人で笑った。
*
夕方。
帰る支度をしていると。
ベガがモモを呼んだ。
「一緒に行きなさい」
「いいの?」
「ええ」
「本当に?」
「リン一人では、まともな酒ができるまで何年かかるか分からないもの」
「そこまで!?」
「三回失敗したのでしょう?」
「三回目は惜しかった!」
「失敗は失敗」
「厳しい!」
モモは嬉しそうに荷物をまとめている。
「モモ」
「なに?」
「よろしく」
「うん」
「学校作ろうね」
「まずワインね」
「そうだった」
『私は?』
シロイチが聞いた。
「草取り」
『なぜだ!』
「学校のため」
『何でも学校につなげるな!』
「つながってるんだって!」
凛は笑った。
そして。
屋敷を出る直前。
「ベガさん」
「何?」
「魔王にまた会う?」
ベガは少しだけ黙った。
「会えればね」
「会ったら」
凛は考える。
「何?」
「……仕事、大変ですねって言っといて」
ベガが目を丸くした。
そして笑った。
「分かったわ」
「あと」
「まだあるの?」
「うちの畑を荒らさないでって」
「そっちが本音でしょう」
「そっちも大事!」
山を下り始める。
凛は一度だけ振り返った。
若い姿のまま立つベガ。
その向こうに広がる不思議な庭。
魔王を愛した女。
敵だった魔を殺さず、
別の仕事を与えた自分。
そして。
腐った葡萄を酒にしようとしている。
「別の役目、か」
凛は呟いた。
世界を救うつもりなどない。
魔王を倒すつもりもない。
ただ。
使えるものを捨てるのが、
凛は昔から嫌いだった。
それだけだった。




