山の上の叔母上
「まずい」
ベガは一口飲んで言った。
「そんな即答しなくても!」
「まずいものはまずい」
「前よりは美味しくなったんです!」
「前はどれだけひどかったの?」
「……飲まない方がいいです」
「でしょうね」
ベガは器を置いた。
凛は肩を落とす。
「でも」
「でも?」
「葡萄はいいわ」
凛が顔を上げた。
「やっぱり?」
「ええ。甘味が強い。普通の葡萄よりずっと」
「貴腐葡萄」
「何それ」
「私の国での呼び方」
「腐っているのに?」
「腐ってるように見えるけど、いい菌が――」
凛は止まった。
「菌って分かります?」
「小さすぎて目には見えない生き物のようなもの?」
「分かるんだ!」
「馬鹿にしてる?」
「マイと同じこと言われた」
「誰よ、それ」
「学校に行きたい女の子」
「学校?」
「うん」
ベガはもう一度葡萄を手に取った。
「学校を作るために、この酒を?」
「正確には、この葡萄で農家の収入を増やして、その利益も学校へ回したい」
「ずいぶん遠回りね」
「私もそう思う」
「学校だけ建てればいいじゃない」
「それじゃ、その子が来られないから」
ベガの手が止まる。
「どういうこと?」
「畑で働いてるの。お父さんは現金収入が必要で、ミルンへ出稼ぎに行ってる」
「なるほど」
「だから、学校を作るだけじゃ駄目だった」
子供が学べる時間。
家計の余裕。
その両方が必要なのだと説明する。
「それで、今まで捨てていた葡萄を金にしようと?」
「できれば」
「面白いことを考えるわね」
「まだ何も成功してないけど」
「それ以前の話よ」
ベガは萎びた葡萄を指先で転がした。
「みんなが捨てていたものを、あなたは捨てなかった」
「だって、使えるかもしれないから」
「シロイチも?」
「え?」
『なぜ私の話になる!』
窓の外から抗議が飛んだ。
ベガは気にしない。
「人を襲った魔を殺さず、畑で働かせているそうね」
「畑だけじゃないよ。偵察とか連絡もできる」
『私は便利屋ではない!』
「肉で働いているんでしょう?」
『……契約だ』
「雇われてるじゃん」
『違う!』
ベガが笑った。
「腐った葡萄も、敵だった魔も、あなたにかかると仕事を与えられるのね」
「一緒にしないでよ」
「同じよ」
「違うって」
「あなたにとってはね」
ベガは器へ残った葡萄酒を見た。
「使い道がないと思われていたものに、別の役目を与える」
凛は少し考えた。
「もったいないだけ」
「それを普通はしないのよ」
「そうかなあ」
「そうよ」
*
三度目の試作がなぜ上手くいかなかったのか。
ベガは一つずつ確認していった。
葡萄の状態。
置いた場所。
昼と夜の気温。
水。
壺。
「あなたの知識が間違っているわけじゃない」
ベガは言った。
「でも、知識だけ持ってきても同じものはできない」
「ですよねえ」
「この世界の葡萄は、あなたの世界の葡萄じゃない」
「はい」
「土地も違う」
「はい」
「水も違う」
「はい」
「なら、この土地に合う造り方を探すしかない」
「はい」
凛は木片へ書き込む。
そこでふと手を止めた。
「……学校と同じだ」
「何が?」
「私の国の学校をそのまま持ってきても駄目なんだ」
子供たちの暮らしが違う。
農作業がある。
家の仕事がある。
「だから、この国に合うやり方を探す」
「酒を造りながら学校の話をする人、初めて見たわ」
「全部つながってるんだってば」
ベガはまた笑った。
「そうね」
今度の笑い方は、少し違った。
*
昼食には、パンと野菜、それに白い塊が出た。
「これ何?」
「チーズ」
「あるんだ!」
「何が?」
「チーズ!」
「あるわよ」
「ヨーグルトは?」
「何それ」
「発酵させた乳」
「似たものなら」
「味噌は?」
「知らない」
「醤油」
「知らない」
「酢」
「ある」
「おお!」
ベガが呆れた。
「あなた、本当に食べ物の話になると元気ね」
「農業系ですから」
「何それ」
「私の国で農業を勉強したの」
「リゲルから聞いたわ」
「何を?」
「あなたのこと」
凛はリゲルを見る。
「何話したの?」
「必要なことを」
「変なこと言ってない?」
「かなり働いていたことは」
「それは本当だからいい」
「午前三時まで」
「そこまで言わなくていい!」
ベガが笑う。
そのとき、小柄な少女が新しい皿を運んできた。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
淡い茶色の髪。
丸い目。
柔らかな雰囲気。
「モモ?」
少女の動きが止まった。
「どうして知ってるの?」
「シロイチ」
「シロイチ!」
『私は悪くない!』
「ウサギなんだって?」
「……あいつ」
モモの目が細くなる。
「後で毛を全部抜いてやる」
『やめろ!』
「本当にウサギなの?」
「見たい?」
「見たい」
「後でね」
「なんでみんな『後で』って言うの」
食卓の空気が少しだけ軽くなった。
*
午後。
ベガに案内されて庭へ出た。
薬草。
果樹。
穀物。
香草。
根菜。
凛が知らない植物も多い。
「これ全部、ベガさんが?」
「私だけじゃないわ」
「誰が?」
「この子たち」
ベガが指を鳴らす。
草むらから小さな人影が現れた。
「精霊?」
「近いわね」
「働いてる?」
「そうよ」
「農作業?」
「そう」
凛の目が輝いた。
「貸して!」
「嫌よ」
「即答!」
「この子たちは私の庭が好きなの」
「うちの畑も好きになるかもしれない」
「すぐ労働力に数えるのをやめなさい」
『私もそう思う』
「シロイチは黙ってて」
ベガは笑っていたが、やがて庭を見渡した。
「でも」
「何?」
「あなたがやろうとしていることは、少し似ているのかもしれない」
「何に?」
「私がここでやってきたことに」
ベガは薬草の葉を撫でた。
「育つものを育てる。土地に合わないものは無理をさせない。役に立たないと思われていたものにも、使い道を探す」
「農業ってだいたいそうじゃない?」
「そうね」
ベガは山の下へ視線を向けた。
遠く。
アンジェルの畑が広がっている。
「食べ物が増えれば、人は少し楽になる」
「うん」
「売れるものが増えれば、暮らしにも余裕ができる」
「そうなればいいと思ってる」
「子供も働き詰めでなくて済む」
「だから学校に行ける」
凛は即答した。
ベガはその横顔を見た。
「あなたは、食べ物を増やしたいの?」
「増やすだけじゃないけど」
「豊かにしたい?」
「できるところは」
「人が飢えないように?」
「もちろん」
「食べ物の取り合いも減らしたい?」
「そりゃ、減るなら」
「そう」
ベガの声が少し低くなった。
「なら、魔王と無関係ではないわ」
凛が振り向いた。
「なんで?」
初めて。
学校と魔王の間に、一本の線が引かれた。
「前に聞いたでしょう」
「何を?」
「魔王が何のために作られたのか」
リゲルから聞いた話を思い出す。
増えた人間。
土地。
食べ物。
争い。
共通の敵。
そして人口を抑えるための魔。
「人口調整」
「そう」
「でも、それとワインがどうつながるの?」
「ワインそのものじゃないわ」
ベガは笑った。
「あなたがやろうとしていることよ」
*
夕方。
モモと一緒に新しい試作品を仕込んだ。
「温度はどうする?」
「ここの地下を使えばいいよ」
「地下?」
「昼も夜もあんまり変わらないから」
「それ!」
凛が身を乗り出す。
「やっぱり温度管理か!」
「近いけど、それだけじゃないよ」
「教えて!」
「いいよ」
「モモ、うち来ない?」
「いきなり引き抜かないの」
ベガに頭を叩かれた。
「痛っ!」
「この子は私の手伝いをしているの」
「じゃあ貸して」
「物みたいに言わない」
モモが笑った。
「行ってみたい」
「本当?」
「アンジェル」
「来て!」
「リン」
ベガの低い声。
「あ」
「私の許可は?」
「お願いします!」
ベガはため息をついた。
「まあ、いいでしょう」
「やった!」
「この子にも、そろそろ外を見せたかったから」
モモが嬉しそうに笑う。
「じゃあ一緒にワイン造ろう!」
「うん」
「売ろう!」
「うん」
「学校作ろう!」
「そこまで一気に?」
「全部つながってる!」
凛が胸を張る。
ベガはそんな凛を眺めていた。
「リン」
「何?」
「一つ聞いていい?」
「うん」
「シロイチを殺さなかったのは、本当に使えそうだったから?」
「それもある」
『それも!?』
「でも」
凛は白い鳥を見る。
「殺す必要がなかったから」
シロイチが黙った。
「人を襲ったのは悪い。でも降参した後まで殺す必要はないでしょ」
「人間の敵でも?」
「敵だからって、ずっと敵でいなきゃいけないの?」
ベガの目が細くなった。
「……そう」
「何?」
「あなたなら、同じことを言うかもしれないと思って」
「誰に?」
ベガは答えず、山の向こうを見た。
「さっきの話」
「人口調整?」
「そう」
風が庭を抜ける。
「魔王は、人間が増えすぎないようにするために作られた」
「聞いた」
「人間同士が土地や食べ物を奪い合わないように、共通の敵になる役目も与えられた」
「それも」
「なら」
ベガは凛を見る。
「人間が、今より少ない土地で十分な食べ物を作れるようになったら?」
凛は止まった。
「食べ物を奪い合う必要が減る」
「ええ」
「でも人口は増えるよ」
「そうね」
「むしろ魔王の仕事増えない?」
ベガが笑った。
「そこまで単純なら、私もあなたに話そうとは思わない」
「どういうこと?」
「神が決めたのは、役目なの」
「役目?」
「魔王が何を考えているかまでは、神にも決められなかった」
凛の表情が変わる。
「それって」
「ここから先は、少し長い話になるわ」
ベガは庭の椅子へ腰を下ろした。
「座りなさい」
「はい」
「あなたが葡萄に新しい役目を見つけたように」
ベガは静かに続けた。
「シロイチに、戦う以外の仕事を与えたように」
凛も腰を下ろす。
「もしかしたら」
夕暮れの向こう。
アンジェルの畑が金色に染まっていた。
「魔王にも、別の生き方があるのかもしれない」
「……魔王に?」
「ええ」
学校を作りたい。
そのために、農家を少し豊かにしたい。
だから、捨てられていた葡萄を酒にしようとした。
ただそれだけだった。
けれど。
**人が食べるものを作ることと、魔王が人を減らすこと。**
それは、この世界では、
最初から同じ問題の両側にあったのだ。
「聞かせて」
凛は言った。
「魔王のこと」
ベガは頷いた。
ワイン造りの相談から始まった山の一日は、
いつの間にか、
この世界で最も古い問題へとつながっていた。




