六話〖希望と絶望〗
「んぎゃあ!んぎゃあ!!」
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」
生まれる前は、どうだったんだろう。
確か凄く温かくて優しい場所に居た気がする。
でも、はっきりとは覚えていない。
覚えているのは自分の五月蠅い泣き声と、助産師さん?の声。
それと、
「良かった、、ありがとう、、ぐすっ」
優しい優しい。
僕につられて涙を流すお母さんの声。
自分の鳴き声の外で聞こえた他の誰の声とも違う。
心から今に感謝するような優しい声。
この人が僕のお母さんなんだって、すぐに理解する事が出来た。
「いたっ!いたいぃ~~、、」
「んぎゃあ!んぎゃあ!」
「あ!ごめんごめんうるさくしちゃったごめん~~、、!」
身体を拭かれたりへその緒を切られたり。
看護師さん達はテキパキと産後の処置をして、僕とお母さんを2人きりの部屋に移した。
部屋はずっと居た場所よりとても明るくて色んな音が聞こえて怖くて、僕は何度も何度も泣いた。
その度にお母さんは僕をあやしてくれて、落ち着かせたらうずくまって痛みに耐えて。
そんな事をずっと2人の部屋で繰り返してた。
当時の僕は当然喋る事も自分の事を自分でする事も出来なかった。
出来るのはミルクを飲む事と泣く事くらい。
あまりの不甲斐なさに思い出したくないし、出来ればこんな記憶は無いほうが良かったなと思ってる。
「何もなくて良かったねぇ。元気に生まれてくれてありがとう」
産後すぐの検診。
足の裏に刺された注射はとてつもない痛みで、生まれてすぐの時と同じくらい泣いた。
泣いて泣いて。
泣き疲れてミルクを飲んで回復したらまた泣いて。
それを数時間繰り返した後に疲れてぱたりと眠った。
赤子だから仕方ないと言ってしまえばそれまでだけど、記憶が鮮明に残っている僕にとっては思い出す度に頭を抱えてしまう記憶だ。
何度泣いても何度暴れても、お母さんは僕を優しくあやしてくれた。
お腹が空いてるのか、眠たいのか、トイレをしたいのか。
初めて子供を産んだお母さんは慣れない様子であたふたしてたけど、投げ出さずに丁寧に言葉も喋れない僕を助けてくれた。
寄り添って安心させてくれなかったら多分僕はあと数時間泣き喚いていたと思う。
「ふんふんふ~ん♪」
生まれてから一週間。
退院が間近に迫り、お母さんが1日中痛みに悶える事は無くなった。
ふとした拍子に痛がったりミルクを飲んでる時に力加減を間違えて痛がらせてしまったりはあるけど、産後すぐの時よりは確実に良くなっていたと思う。
「***は本当に泣かなくなったねぇ」
僕はこの辺りから物心というものが付き始めた。
最初は訳も分からず泣いて喚いていればよかったのが、物心がついてしまったから何かある度に泣いて訴えるという手段がどうにも恥ずかしくなってしまった。
それでも感情がコントロール出来るわけではないから数回の我慢の末に結局泣いてしまってたけど。
お母さんと複数の看護師の意見を聞くに、他の赤ちゃんと比べると圧倒的に泣かない子だったらしい。
そのせいで検診が増えたけどあれは必要悪だったと割り切ってる。
毎日何度も泣いて駄々を捏ねてお母さんに迷惑を掛けるよりは何倍もマシだったから。
「あとちょっとで退院かぁ、、、」
2人の時間が減るのが寂しいとか、身体の調子がまだ万全じゃないとか。
そういう理由ではないもっと大きな不安を抱えてる表情でお母さんは呟いた。
僕はまだ病院の中の景色しか知らない。
もしかしたら、ここを出たら凄く怖い世界が広がってるのかもしれない。
生まれて一週間でも考えられるありとあらゆる怖い世界を想像して、その日は一晩中泣いた。
突然泣いたからか、何故か入院期間が1日伸びた。
お母さんの表情はずっと優れなかった。
「**さん。退院おめでとうございます。次の検診は○○日で───」
退院の日。
外に出ると病院の中よりももっと眩しくて、僕は被せてもらってた帽子を深く被りなおした。
見上げると見えるお母さんの顔はずっと暗くて、看護師さんの話を上の空で聞いていた。
喋れないから伝えられないけど、お母さんが考え事してるなら僕もちゃんと話を聞いておこう!
そう思って必死に耳を澄ませてたけど知らない単語ばっかりで早々に諦めた。
生まれたての僕には厳しいミッションだった。
「ただいま~、、、」
電車に乗って家に帰る。
僕にとっては病院が家の感覚だったから初めての場所に行くという感覚だったけど、お母さんが「家に帰る」と言ってからここに連れてきてくれたから、多分ここが自分の家なんだろうなという何となくの感覚は持っていた。
「***。静かにね」
初めての場所、初めての匂い、お母さんの不安そうな顔。
安心出来る要素がひとつもなくて身動ぎしていると、お母さんが僕の顔を覗き込んでそう言った。
お母さんはなんで自分の家なのに小声で、病院の時とは違って静かに歩いてるんだろう。
そう疑問に思うのとオムツがビショビショになるのはほぼ同時だった。
「ん、、んぇ、、」
「え、ちょちょっと待って、泣かないでお願い」
「んぎゃああああああ!!」
「しー!ご飯!?オムツ!?なになにどうしたの」
初めての環境で下半身全体に広がる不快感。
お母さんの願いに副う事は出来ずに僕の泣き声は堰を切って溢れ出した。
必死に原因を探したり鞄の中身を出したりするお母さんには見向きもせず、ただただ泣き喚いた。
泣き喚いて、濡れて温かくて不快だという気持ちを前面に押し出した。
「あっ!か、かずや!ご、ごめん寝てたよね。荷物だけ持ってすぐ出ていくからっ」
初めて見るひげ面の大きな男の人が僕とお母さんを冷たい目で見下してる。
病院でお母さんが向けてくれた目と真反対だとすぐに理解出来た。
「産むなっつったよな?」
「ご、ごめんなさい!迷惑は掛けないから、、!」
「そういう事言ってんじゃねえんだよ!!!!」
「っ!!!***!!!!」
「けほっ───」
自分の目の前を男の足の裏が覆って何も見えなくなって、後ろに吹き飛ばされてどこかをぶつけて、感じた事のない衝撃で意識を手放した。
足の裏に注射をされた時とは全然違う。
重さも、衝撃も、痛みも。
「お前はこっち来い!」
「いたっ!髪!いたい!!」
「うるせえゴミが!!」
「***!!!ん!ん¨ー!!!!」
遠のいていく意識の向こう側で、必死に僕のことを呼ぶお母さんの声が聞こえた。
その次に聞こえたのは意識がうっすら戻り始めてから。
どれくらい時間が経ってたんだろうか。
楽しそうな男の声と、今まで聞いた事のないお母さんの声が耳に届いた。
ちょっとだけ、泣き声が混ざってるのは分かる。
「ん───けほっ」
身体中が痛い。
目が開けられなくて暗くて怖い。
聞こえてくる声も、お母さんの声なのにお母さんの声じゃないみたい。
まるで動物みたいでどんどん不安は加速していった。
(おかあ、、さん、、、)
まともに息も出来なくて、辛くて怖くて痛くて。泣きたいのに泣けない。
固い床と固い壁に当たって身動きも取れない。
このままだったらどうなっちゃんだろう。
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、声にならない声で泣き続けた。
まともに息も出来ないくらいボロボロになったあの日。
痛くて寝る事も出来なくて、限界まで1人で耐えて耐えて気絶して。
次に目覚めたのは翌早朝だった。
目覚めたのは突然抱きかかえられたから。
身体の色んなところにアザを作って顔を泣き腫らしたお母さんに。
助けに来るのが遅いとか、なんで蹴られた時に守ってくれなかったのとか。
そんなのがどうでも良くなるくらいお母さんの腕の中は安心出来て、目覚めてすぐなのに痛みを一時的に忘れて眠りにつけた。
「***!?!?大丈夫!?!?ミルク飲める!?!?」
次に目が覚めたのはカラオケ。
寝たからか痛みはほんの少しマシで、呼吸も出来るようになっていた。
「んぇっ」
「ご、ごめんね!まだミルク早かったよね!はいとーんとん」
呼吸は出来てもまだ上手くミルクは飲めなくて、お母さんに背中を叩いて貰って咳と一緒に吐いた。
眠ってしまってからどれくらい時間が経ったのかは分からないけど、お母さんの顔は寝る前に見た時よりも泣き腫れていて、それがとても可哀想に見えてお母さんの顔を撫でた。
そしたらお母さんはまた泣き出してしまって、強く抱きしめられたから顔も撫でられなくて、成す術の無い僕はお母さんの体温に身を委ねてまた眠りについた。
ピッ──ピッピッ───
「お会計4280円です」
病院にも行かず奇跡的に回復した僕は、スーパーでアルバイトをするお母さんの背中に居た。
昼はアルバイト、終わったら夕方から夜まで配達のアルバイト、夜はネットカフェ。
病院に居た頃みたいにずっとベッドで寝ていられなくて疲れたりもしたけど、お母さんの近くにずっと居られて安心出来て、嬉しいのほうが勝っていた。
「あら~***ちゃん今日も可愛いねぇ」
「そうよねぇ。全然泣かないしえらいわよねぇ」
スーパーで同じ時間帯に働く人達は僕の事を凄く可愛がってくれて、オムツを変えてくれたり慣れた手付きでミルクを作って飲ませてくれたり家から持ってきた絵本を読ませてくれた。
お母さんは僕を預けられる環境に安心して休憩時間はよく寝ていて、お母さんの幸せそうな寝顔を見られるこの休憩室が僕は大好きだった。
オムツが汚れても泣く前に気付いてくれる。
お腹いっぱいミルクを飲ませてくれる。
大きい段ボールにタオルを敷き詰めてふかふかの簡易ベッドを作って寝かせてくれる。
お母さんが働いてる間もここに居られたらなと思ったけど、1人僕の事もお母さんの事も好きじゃない人が居てそれは叶わなかった。
若くして無責任に子供産んで、とか。
職場にまで赤ちゃん連れてきて迷惑、とか。
見ててくれる旦那も居ないのね、とか。
そんな酷い事を何度も何度もお母さんに言ってきて、悲しいお母さんの顔を見るのが嫌で何度か泣いてしまった。
あの人が居なかったら、お母さんもおんぶしたまま仕事せずに済むかもしれないのに。
「あら?もう休憩終わり??***ちゃんともお別れねぇ」
「そうだ!午後は私が代わりにおんぶしといてあげるわよ!こ~んなに可愛い子私もおんぶしたいわ!」
「大丈夫です!流石にそこまでは、、」
「そ、そうよね~。ごめんなさい。あまりにも可愛くて」
「いつでも頼っていいのよ晴香ちゃん。私達は合わせて8人も子供育ててるからね」
「そうよ。そこらの保育士さんにも負けないわ!」
「佐藤さん山下さん、、、、」
一番はお母さんが良かったけど、僕はこの2人とあとよく休憩時間が被る他の2人の背中だったら泣かない自信があった。
それくらい休憩時間にもそれ以外の時間にも僕の事を可愛がってくれたし、お母さんの事もちょっとの事でも気を遣って優しくしてくれた。
「すみません遅くなりました!何番レジ入ったらいいですか」
「そんなのも見て分からないの?大体アナタ、休憩時間は5分前には戻ってくるのがマナーで───」
僕が唯一嫌いなのはお母さんをいじめる樋山さん。
レジのスタッフの中では一番偉い人らしく、誰をどこのレジに入れるかとか、そういうのを決めてるらしい。
「まあまあ樋山さん。**さんは3番レジでお願い」
「わ、分かりました」
助けてくれたのは二番目に偉くて年齢は一番上の梅野さん。
堂々と可愛がってくれたりはしないけど、お母さんの背中に居る時にこっそりあやしてくれたりさっきみたいにお母さんを助けてくれたりする。
僕にとってはお祖母ちゃんみたいな存在だ。
「いらっしゃいま────」
「晴香。こんなところで何してるんだ」
一生懸命不機嫌な顔で樋山さんを睨むのに必死になっていた時、お母さんの動きがぴたっと止まって聞き覚えのある声が聞こえた。
僕を蹴り飛ばしたあの男の声だった。
「働いて、、る」
「それはまあそう、、だよな。夜はどこに泊まってるんだ?」
「友達の家」
「もう帰って来る予定は無いのか?」
「お会計250円です」
「な、なあ晴香」
「お会計250円です!」
「カ、カードで、、」
あの男がまたお母さんを困らせてる。
それは分かるのに僕の不自由な身体ではどうする事も出来なくて、ただただ辛そうなお母さんの背中で項垂れた。
「また来る」
男の言葉は無視して、お母さんは並んでいたお客さん達を次々に対応した。
その間もここ数日で戻りかけてた笑顔が戻る事はなくて、ずっと落ち込んだ声のままだった。
原因は絶対あの男。
毎日してた配達のバイトもせずにネカフェに入ったお母さんの疲れた顔を見て、僕はより一層あの男が嫌いになった。
「なあ晴香。今日は家に」
「お会計180円です」
あれから毎日。
男はお母さんのところへ来た。
お店に迷惑を掛けてるわけでもないし必ず何か商品を買って帰るからお母さんは誰にも相談出来ず、出来る限り冷静に対応していた。
「頼む。晴香が居ないとダメなんだ」
「ありがとうございました」
何度も何度も。
2週間毎日スーパーに来てたらしく、お母さんが出勤しているのを見つける度にレジに並んでいた。
初めは見る度に固まってたお母さんも慣れてきて普通に対応出来るようになっていた頃、男は3日連続で現れなくなった。
あれだけ来るのを嫌がってたのに、いざ来なくなるとお母さんは不安になっていた。
あの時僕を蹴ったみたいに、お母さんにも暴力を振るうんじゃないか。
そんな不安を僕は抱えていた。
「晴香!仕事を見つけてきたんだ!」
「どうしたのその恰好、、、」
3日ぶりに来た男は無精ヒゲを剃って髪と服装を整えて小綺麗になっていた。
お母さんに話し掛けるまで、僕は気付けなかった。
「今まで晴香に頼りきりだった。ごめん。身だしなみ整えて面接も行ってアルバイト見つけた。これからは俺も頑張るから戻ってきてほしい」
「かずや、、」
「家も綺麗に片付けたからさ、、。ほら、そいつ、、その子が寝るスペースも居るし。と、とにかく待ってるから!お金!ちょうど!」
「あ、ちょっと」
「じゃあ!」
丁度のお金と購入した幼児用のお菓子を置いて男は去っていった。
お菓子の対象年齢は7か月以降。
「まだ食べられないし、、」
それなのにお母さんの声はちょっと嬉しそうで、僕には理解が出来なかった。
「ただいま~、、、」
「晴香!」
その日の配達のアルバイトが終わった後。
嫌な予感がしてぐずる僕が泣き疲れてから、お母さんはあの男の家に帰った。
会ってすぐ蹴り飛ばしてくる暴力男なのに、お母さんを悲しませる人なのに。
なんでそんな男が居る家に帰るのか、僕は分からなかった。
「もうバイト行くの?」
「うん。かずやは何時から?」
「俺はもうちょっとあと~、、」
家に帰ってから数日。
僕の心配を他所に平和に時間は流れていた。
お母さんは配達のバイトをやめてレジのバイトだけにして、夜はスーパーで買った材料でご飯を作って遅くに帰って来る男と一緒に食卓を囲った。
男は何度も僕に構おうとしたけど、その度に蹴られた時の痛みが蘇って、僕は何度も泣いた。
泣いて泣いて泣き叫んで。
そしたら漸く分かってくれたのか、僕の世話はお母さんが全部してくれるようになった。
たまに、お母さんが居ない時に目が合うと舌打ちをされる。
僕はまだ、男の事を信用してない。
「晴香、いつまでスーパーで働くの?」
「分からないけど、やっと慣れてきたししばらくは働こうかなって」
「ふ~ん、、。俺の収入だけじゃ不満なんだ」
「そ、そういうわけじゃない!パートの人達みんなよくしてくれるし、***おんぶしてても大丈夫だし」
「家で見てればいいじゃん。部屋も散らかって来たし最近」
一緒に住み始めて1か月と少し。
男からお母さんへ対する優しさは徐々に減っていった。
ありがとうもごめんなさいも言わなくなった。
お母さんが居る場所でも僕に舌打ちするようになった。
幸せそうだったお母さんの表情は、また少しずつ曇っていった。
「そう、、だよね。今度話してくる」
「今日」
「うん、、。分かった」
男に言われるまま、お母さんは実家に帰らないといけないと嘘を吐いてスーパーのアルバイトを辞めた。
「またいつでも遊びに来ていいのよ?」
「そうよそうよ!***ちゃんも一緒にね。樋山さんは私達が止めとくから!」
最後の最後まで、樋山さん以外のパートさんはお母さんに優しかった。
僕は、お母さんがこのスーパーで働かなくなるのが嫌だった。
「今日アルバイトは、、?」
「うるっせえな、、。人の金で楽してる癖によ」
お母さんがスーパーを辞めて一か月。
パートの人達とは会えなくなったけど、僕にとっては悪い事ばかりじゃなかった。
良い事は勿論、お母さんと毎日ずっと一緒に居られる事。
一緒にご飯を食べて、一緒に昼寝して。
夜は僕だけ子供用ベッドで寝るから一人だけど、それでもお母さんの顔を見られる時間が増えて嬉しかった。
でも、せっかく見られるようになったお母さんの顔はあんまり幸せそうじゃなかった。
バイトは終わってるのに朝まで帰ってこない男。
お母さんのご飯に文句を言う男。
僕が漏らしたらベッドを蹴ったり壁を殴って怒鳴る男。
相談出来る相手も居ないお母さんの顔は、日に日にやつれていった。
それが気に入らなかったのか、男はお母さんの顔を見るだけで暴力を振るうようになった。
毎日毎日。
暴力を振るわない日は1週間に2日あるか無いかくらいだった。
あの日を迎えたのは、それからすぐの事だった。
「メシ」
「今***にミルクあげてるからちょっとだけ待って」
「誰に口答えしてんだ!!ああ¨!?!?」
男が投げたティッシュ箱が直撃する。
痛みとその場の怖い雰囲気に、涙は堰を切って溢れ出した。
「んぎゃあああああ!!!!!」
「うるっせえなガキ!!!!!」
「やめて!!!お願いやめて!!!」
男の暴力からお母さんが身を挺して守ってくれた。
お母さんの腕の中で、罵詈雑言と蹴りの振動が伝わってくる。
不安で怖くて、お母さんが死んでしまうんじゃないかと思って、いつもは抑えられる涙が止まらなかった。
「てめえの!ミルク代も!俺が稼いでんだよ!!ああ¨!?分かってんのか!!ピーピー泣きやがって!!」
ドンッ───────
「うっさいねんボケ!!!!」
聞こえてきたのは壁を殴る音と隣の人の怒鳴り声。
隣の人は確か、一度家に乗り込んできた時に見た記憶だとお母さんを蹴り続けるこの男よりも大柄な男だったと思う。
乗り込んできた時から翌朝までは、お母さんが暴力を振るわれる事もなかった。
「ああ、くそっ。なんで俺が言われねえといけねえ、、。俺の家だぞ!せっかくの休みだぞ!!!イライラする!イライラする!!!」
蹴りが止まった。
少しだけ緩んだお母さんの腕の隙間から見えた男は不機嫌そうに頭を掻き毟っていた。
「そうだお前だ。お前が原因だ」
僅かな隙間から、狙いすましたように男と目が合った。
またお母さんが蹴られる。
怖さが涙を上回って喉がひっくり返る。
ぎゅっと目を瞑ってもその時は来ず、男はぺたぺたと足音を立ててキッチンへ向かった。
「晴香、そいつ寄越せ」
「ちょっ!やめてかずや!!やめて!!!誰か!誰か───」
「うるせえ!!!」
さっきまでとは比べ物にならないくらいの勢いでお母さんが蹴り飛ばされる。
開いた腕の隙間から落ちそうになって、必死にお母さんの服を掴んで耐えた。
視界に映る男は、包丁を持っていた。
「早くどけって!言ってんだろ!!!」
ドンッドンッ────
早くなんとかしないとお母さんが死んでしまう。
そう思うくらいに蹴りの威力は高く、再度腕の中で抱きかかえられた僕にも振動は強く伝わってきた。
それとは別に、壁際に追いやられたからか壁を叩く音がより鮮明に聞こえるようになった。
「はあ、、。もういいや。お前も死ね」
お母さんの抱きしめる力が強くなる。
あ、もしかして死ぬのかな。
死ぬってどういう事なんだろう。
お母さんとは一緒に居られるのかな。
男が包丁を振り下ろすまでの数秒。
僅かな時間で沢山の事が頭を過った。
ピンポーン────────
部屋中に鳴り響くチャイムの音。
男の動きはピタリと止まり、さっきまで色んな音や出来事でうるさかった部屋はぴたりと静かになった。
ドンドンドンッ───
「さっきからうるさいんじゃボケ!出てこんかい!!!!!」
ドンドンドンッ─────
「くそ、、。晴香、お前出ろ」
「ぐすっ」
「早く出ろ!」
ボロボロの身体で僕を抱き抱えたお母さんは、必死に涙を拭いながら玄関の扉を開けた。
そこには僕の記憶通りの大柄な男が立っていて、手にはハンマーが持たれていた。
「おまッ、、、なんや姉ちゃんのほうかいな。あんまうるさくされると困るんやわ。分かってもらえるか?」
「はい。はい。すみません、、」
「まあ姉ちゃんも大変なん分かるけど、限度っちゅうもんがあるやろ?なあ?」
「すみませんすみません、、」
目を合わせられないお母さんと、お母さんの全身をジロジロ見る男。
2人はまるで対極で、僕には同じ人間には見えなかった。
「姉ちゃんがその体で払ってくれるっちゅうんやったらまあ多少は目瞑ったるけど──」
「すみませんもうしません!」
バタンッ─────
「ちっ!二度と騒ぐんちゃうぞ!!!」
「ひっく。ぐすっ、、」
最後に部屋のどこに居ても聞こえるくらいの大きな音で、男は玄関の扉を蹴って帰っていった。
お母さんは汚れる事も気にせず玄関に座り込んで、僕を抱きしめて泣いた。
「お前さあ。抱かれてこいよ。そしたらあのジジイもちょっとは静かになんだろ(笑)」
隣人の不快な視線も、男の言葉も。
僕には理解出来なかった。
でもそのどちらもか、もしくはどちらかがお母さんの心を壊した事は理解出来た。
「おま、、え、、、。なんで、、、」
「もういい。もう全部要らない」
僕を玄関に置いて立ち上がったお母さんはキッチンに向かって、その後リビングに向かって、男は何か言った後に倒れた。
青いカーペットは赤く染まっていった。
「***。行こ」
怖いくらい静かに立ち上がったお母さんは、僕を抱き抱えて家を出た。
男がどうなったのかはお母さんで隠されて見えなかった。
蹴られた時の僕みたいに、声が出ないんだろうか。
だって、さっきまでうるさかったのに今は静かだし。
「あぶぅ」
見上げて見えるお母さんの顔は、灯りの当たる角度が悪いのかあんまり見えない。
でも、何となく暗い表情な気がした。
「次は良い世界だったらいいなあ、、。せめて***だけでも」
良い言葉のはずなのに、良い意味に聞こえなかった。
いつもは安心するお母さんの体温も今は怖い。
少しだけ、いつもより高い気がする。
「はあ、、、はあ、、、」
着いたのは家の近くの川。
暗くて見えにくいけど、流れが強いのか水の音がいつもよりはっきり聞こえて、河川敷に降りる前に川に来た事は分かっていた。
「ごめん、ごめんね***」
お母さんの謝る声が聞こえる。
僕の身体はお母さんの手の中に収まったまま、川の音がどんどんと近付いてきた。
今ではもうお母さんの声も聞こえにくいくらいに耳の側で水が流れている。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、、、」
何が起きたか分からなかった。
お母さんが突然謝りだして、突然全身が冷たくなって、突然息が出来なくなった。
真っ暗で怖くて冷たくて。
一度だけ男を起こさないように夜中に静かにお風呂に入った時に似てる。
ああ多分、僕は今川の中に居るんだ。
苦しい、辛い、冷たい、怖い。
お母さんの手の温もりはもう感じない。
顔も体も、触れるのは冷たい水だけ。
(お母さん、、、なんで、、、)
自分の身体すら碌に操れない僕は、そのまま冷たく早い水の流れに身を預けた。
「アイツが死んだのを確認したら、お母さんも行くからね」
晴香の言葉は、誰にも届かなかった。




