第9話:ガストという名の鏡
この物語は、ひとつの違和感から始まる少年の記録です。
小さな変化は、やがて世界の輪郭を少しずつ変えていきます。
この章では、その“途中経過”が描かれます。
まだ何もはっきりとは見えませんが、確かに何かが進んでいます。
それでは続きをどうぞ。
夜明けの光が、窓の隙間から細く差し込んできた。
一晩中、神耳を張り続けていた。体が重かった。
父さんと母さんはまだ眠っていた。
俺は静かに外へ出た。
宿の裏口から路地に出ると、朝の冷たい空気が来た。石畳が夜露で濡れていた。人がいなかった。
いや——いた。
路地の曲がり角に、二人がいた。
昨日の少女たちだった。年上の方が壁に背を預けて、年下の子を隣に座らせていた。年下の子は眠っていた。年上の方は眠っていなかった。俺の足音に気づいて、顔を上げた。
目が合った。
「待ってたの」と俺は言った。
「……うん」
声が小さかった。昨日より小さかった。
「ここで寝たのか」
答えなかった。答えなくてもよかった。石畳に座った跡が、それを言っていた。
俺はしゃがんで、二人と目の高さを合わせた。
「名前は」
「ミラ」少女が言った。「こっちはルカ。弟」
ルカはまだ眠っていた。ミラがルカの肩に手を置いていた。
「どこから来た」
「北の街。連れてこられた」
「誰に」
ミラが少し間を置いた。
「ガストに」
その名前を、俺は知らなかった。
宿に戻って、父さんと母さんを起こした。
事情を話すと、父さんは少し考えて、二人を部屋に入れた。母さんが残りの乾し肉を出した。ミラが先にルカに渡した。ルカが食べるのを見てから、自分も食べた。二人とも、ひどく速く食べた。
「ガストって誰だ」と父さんが聞いた。
「小人の監督官」ミラが言った。「この街の市場で小人を仕切ってる。逃げた小人を買い取って、また売る仕事をしてる」
母さんの顔が、少し変わった。
「小人が、小人を売るの」
「そうしないと、自分が売られるから」
部屋が静かになった。
ミラが父さんの首元を見た。それから母さんの首元を見た。
「逃亡者だ」
断定する言い方だった。問いじゃなかった。
「焼印を持ってる。でも持ち主のところにいない。逃げてきたんでしょ」
父さんは答えなかった。
「俺も逃げてきたのか」と俺は聞いた。「最初から」
「……ああ」と父さんが言った。「八年前に」
「俺のために」
父さんは答えなかった。答えなかったことが、答えだった。
俺はミラを見た。「焼印って、何だ」
ミラが俺を見た。
「知らないの?」
「知らない。ずっと森にいた」
ミラは少し考えた。それからルカを見た。ルカは乾し肉を食べ終わって、膝を抱えていた。
「小人は全員、生まれたときから番号を持ってる。巨人の家に仕える番号。その番号が焼印。持ち主が決まってる証明」
「追跡できるのか」
「できる。焼印に術が込めてある。持ち主が探そうとしたとき、反応する。どこにいても、見つかる」
俺は父さんを見た。
あの夜、母さんが首筋を晒したときの言葉が、また頭に鳴った。
——これがある限り、私たちはどこにいても見つかる。
父さんは窓を見ていた。
「八年間、術を抑えていたのか」
「……ある程度は。でも限界がある」
「鎧熊の群れが来て、居場所が割れた」
「ああ」
「だから今、誰かが来ようとしてる」
父さんは答えなかった。答えないことが、答えだった。
昨夜の廊下の足音が、頭の中で鳴った。
部屋が静かになった。ルカが膝に顔を埋めた。ミラが窓を見た。
俺は、この部屋にいる全員が同じ場所に立っていることを確かめた。
扉が開いた。
ノックはなかった。
小柄な男が入ってきた。小人だった。俺より少し背が高い。四十センチくらいか。体つきは俺より太い。目が笑っていなかった。
「やっぱりここにいた」
男はミラとルカを見た。それから父さんを見た。父さんの首筋を見て、口元が歪んだ。
「逃亡者まで拾ったのか。物好きだな」
「俺たちに用はない」父さんが言った。
「あるよ。この二人、俺の商品だ」
ミラが身を固くした。ルカが顔を上げた。
男——ガストが部屋を見回した。父さんを見て、母さんを見て、俺を見た。
「子供もいる。三人か。焼印持ちの逃亡者が二人に、小人の子供が三人。まとめて売れば、しばらく食える」
俺はガストを見た。
怒鳴らなかった。脅している声じゃなかった。仕事の話をしている声だった。本当に、ただの仕事として話していた。
「出て行け」と父さんが言った。
「怖い顔するなよ」ガストが言った。「俺も好きでやってるわけじゃない。焼印持ちがこの街でどう生きるか、お前らだって分かるだろ。俺みたいにするか、売られるかだ。他に道はない」
父さんは何も言わなかった。
ガストが続けた。「お前たちが逃げても、どうせ捕まる。それまでの間、ここで野垂れ死ぬよりは、俺と組んだ方がまだましだ。選択肢を提示してるだけだ。合理的だろ」
部屋が静かだった。
俺はガストの目を見た。
怒りが来ると思っていた。でも来なかった。来たのは、もっと冷たいものだった。
この人は正しいことを言っている。
この街で焼印を持って生きるなら、ガストの言う通りかもしれない。逃げ場はない。追われている。金もない。頼れる者もいない。ガストの示す道が、この街では「現実的な選択肢」なのかもしれない。
だから怖かった。
嘘をついている人間より、本当のことを言っている人間の方が、ずっと怖い。
俺はスリングに手を伸ばさなかった。
「その道は選ばない」
俺は言った。「だから邪魔するな」
ガストが俺を見た。下から見上げてくる三十センチの子供を、初めてまともに見た目をした。
「子供が言う台詞じゃないな」
「知ってる」と俺は言った。「でも子供じゃない」
ガストが少し黙った。
笑った。嘲りじゃなかった。何かを確かめたような、奇妙な笑い方だった。
「そうか」ガストが言った。「なら好きにしろ。ただ——今夜中には動いた方がいい。俺は仕事をするだけだ」
扉が閉まった。
部屋に沈黙が落ちた。
「通報する」と父さんが言った。「今夜か、明日の朝か」
「分かってる」俺は言った。「ここを出る。どこかに隠れる」
父さんが俺を見た。何も言わなかった。でも止めなかった。
六人で廃屋へ向かった。
街の外れの、誰も使っていない石造りの建物だ。窓が割れていた。風が通り抜けた。でも屋根はあった。
床に座った。ミラがルカを隣に置いた。父さんが荷物を確認した。母さんが水袋の残りを数えた。
ミラが俺に言った。
「なんで助けるの」
昨日の路地の話だった。
俺は少し考えた。
「俺も、誰かが助けてくれたから、ここにいる」
「誰が」
「父さんと母さんが」俺は言った。「俺が生まれたとき、逃げた。俺のために。だから俺はここにいる」
ミラは答えなかった。ルカが膝から顔を上げた。何かを言おうとして、やめた。
風が廃屋の割れた窓から入ってきた。
ミラが何かを言おうとした。でも言葉が来るより先に、俺の耳が動いた。
俺は壁に背を預けて、神耳を張った。
街の音が遠くから聞こえている。荷車の音。人の声。夜の市場の残響。その奥に——重い。規則的な、意図を持った足音が、複数、動いていた。
「来る」と俺は言った。「まだ遠い。でも近づいてる」
父さんが立ち上がった。荷物を掴んだ。
「動くぞ」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この物語は、まだ答えに辿り着いていません。
むしろ、わからないことが増えていく段階です。
もし少しでも続きを気にしていただけたなら、
次の話でその“違和感の正体”が少しだけ動きます。
また次回、お会いできれば嬉しいです。




