第8話:下を向かない
この物語は、ひとつの違和感から始まる少年の記録です。
小さな変化は、やがて世界の輪郭を少しずつ変えていきます。
この章では、その“途中経過”が描かれます。
まだ何もはっきりとは見えませんが、確かに何かが進んでいます。
それでは続きをどうぞ。
市場は、うるさかった。
怒鳴り声と笑い声と値段の交渉が混ざり合って、どこからどこまでが一つの音か分からない。森とは全然違う。規則がない。方向がない。あらゆる方向から音が来る。
俺は父さんの背嚢の影に隠れながら歩いた。
人間の足元を縫って進む。石畳は俺にとって広場みたいなものだ。隙間を走れば踏まれはしない。でも気は抜けなかった。どの足も、俺の全身よりでかい。一瞬の不注意で終わる。
「次はあっちの店だ」
父さんが俺に小声で言って、歩き始めた。俺は続いた。
そのときだった。
声が聞こえた。
市場の奥の方、路地に続く隙間から——細くて、高くて、怖がっている声がした。俺は足を止めた。神耳が、自動的に声の方向を捉えていた。
二人いる。小さい。小人の子供だ。一人は声を殺して泣いている。もう一人が何かを庇うように立っている。そこへ、重い足音が近づいていた。
俺は走っていた。
父さんが振り返るより速く、露店の影に入っていた。人間の足元を縫って、声の方向へ向かう。石畳の隙間。荷車の車輪の陰。人間の足と足の間をすり抜けて、路地の入口に飛び込んだ。
見えた。
小人の少女が二人、路地の隅に追い詰められていた。一人は年上で、もう一人をかばって後ろに立っていた。その前に、大きな男が立っていた。男の手に、干し肉があった。女の子が持っていたものだ。奪ったのだ。
年上の少女は何も言わなかった。何も言えなかった。ただ、下の子を後ろに隠して、男を見上げていた。
男が一歩踏み出した。
俺はスリングを引き抜いた。
川石をセットして、男の手——干し肉を握っている手の甲を狙って、振り抜いた。
ヒュン——。
パキン。
男が手を引っ込めた。干し肉が石畳に落ちた。
男が振り返った。俺を見た。俺は男を見上げた。足一本が俺より大きい。
「次は膝だ」
俺は言った。
男が笑おうとした。
止まった。
三十センチの何かが、仁王立ちしてこちらを見ていた。笑っていなかった。怒鳴ってもいなかった。ただ、次の石をどこに放てば膝の皿が正確に砕けるか、計算しているような目をしていた。
男は何も言わなかった。
干し肉を拾わなかった。
路地から出て行った。
少女が動いた。年上の方が、下の子の手を引いて立ち上がった。俺を見た。一秒だけ、目が合った。
俺は石畳に落ちた干し肉を拾って、差し出した。
少女は受け取った。それだけだった。礼を言おうとして——言えなくて、走り去った。下の子を引っ張りながら、路地の奥へ消えた。
俺はスリングを仕舞った。
「リト」
後ろから父さんの声がした。
振り返ると、父さんが路地の入口に立っていた。いつ来たのか分からなかった。表情が読めなかった。怒っているのか、疲れているのか、その両方なのか。
「余計な——」
「父さん」
俺は先に言った。
「俺が招いたのは、鎧熊だけじゃない」
父さんが口を閉じた。
「ここに来たのも、俺が原因だ。鎧熊を呼んだのは俺だ。居場所が割れたのも俺のせいだ。だからここにいる。だから——俺が動く」
父さんは何も言わなかった。
「父さんが止めても、止まらない。そういう話をしてる」
風が路地を抜けた。石畳の上の埃が舞った。
父さんは少しの間、俺を見ていた。
それから、口を開いた。
「……行くぞ」
それだけだった。
怒らなかった。咎めなかった。ただ、前を向いて歩き始めた。
俺は父さんの後を追った。
夜、俺は眠れなかった。
壁に背を預けて、神耳を張り続けていた。父さんと母さんの寝息が聞こえる。規則的だった。二人とも疲れ切っていた。
廊下の音を追い続けた。
宿の客が部屋に戻る足音。遠くで誰かが咳をした。風が窓を揺らした。
夜中を過ぎた頃だった。
足音が来た。
一人じゃない。複数だ。重い。鎧の音に似た、金属が擦れる微かな音が混じっていた。廊下を進んでくる。この部屋の前で——止まった。
俺は動かなかった。
息を止めた。スリングを握った。
扉の前で、足音が止まっていた。
十秒。
二十秒。
それから、また動き始めた。廊下の奥へ遠ざかっていった。足音が消えた。
俺はしばらくそのまま動かなかった。
この街に来て、まだ二日目だ。なのにもう、扉の前で足音が止まる。
今夜の足音は、偶然じゃない気がした。
夜明けまで、神耳を張り続けた。
足音は、もう来なかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この物語は、まだ答えに辿り着いていません。
むしろ、わからないことが増えていく段階です。
もし少しでも続きを気にしていただけたなら、
次の話でその“違和感の正体”が少しだけ動きます。
また次回、お会いできれば嬉しいです。




