第7話:城壁と家畜
この物語は、ひとつの違和感から始まる少年の記録です。
小さな変化は、やがて世界の輪郭を少しずつ変えていきます。
この章では、その“途中経過”が描かれます。
まだ何もはっきりとは見えませんが、確かに何かが進んでいます。
それでは続きをどうぞ。
朝の光が、瓦礫を照らしていた。
父さんが先頭を歩く。母さんが続く。俺が最後尾だ。三人とも無言だった。森の音だけがあった。鳥が鳴いて、風が梢を揺らして、足元の腐葉土が踏み締められるたびに湿った匂いが上がってくる。
俺は歩きながら、耳を張り続けていた。
昨日から鋭くなっていた耳が、今日はさらに遠くまで届く。鎧熊の群れを迎え撃った夜から、何かが変わっていた。戦闘で熱を全部燃やして、また食べて取り戻して——その繰り返しの中で、聴覚だけがまだ研ぎ澄まされたままだった。
木々の隙間を縫う風の向こうに、何かある、という感覚が続いていた。
一時間ほど歩いた頃だった。
「止まって」
俺は小声で言った。
二人が振り返った。
「東。人がいる。複数。隊列を組んでる」
足音の規則性が、獣じゃない。等間隔で、重い。鎧か、武器か——何かを身につけた人間が、まとまって歩く音だ。
「距離は」父さんが低く聞いた。
「まだ遠い。でもこっちに向かってる」
父さんと母さんが、目を合わせた。言葉は何もなかった。でも何かが通じた。二人の間にある、俺には見えない会話が、一秒で終わった。
「ルートを変える」父さんが言った。「北に迂回する。尾根を越えて森を出る。時間はかかる」
「やる」
俺は即座に言った。父さんが一瞬だけ俺を見て、頷いた。
北へ向かった。
尾根を越えるルートは険しかった。岩場が続いて、藪が深くて、足場が悪い。でも俺は歩きながら、定期的に東の足音を確認し続けた。近づいていない。遠ざかってもいない。並走している。
「まだいる」
「距離は」
「同じくらい。追ってはいない。でも消えてもない」
父さんは黙って足を速めた。
完全には撒けていない。それは分かっていた。でも時間は稼げている。向こうはまだ俺たちの正確な位置を掴んでいない。
それだけで、十分だった。
尾根を越えたとき、風が変わった。
木々の匂いが薄くなった。土の匂いが変わった。草の匂いが混じってきた。森が、終わろうとしていた。
斜面を下りた。木々が疎らになって、草地が広がって——。
壁が、見えた。
あまりにも大きかった。俺の身長は三十センチだ。大樹の上から街道を行く人間を見たことはあったが、その人間たちが蟻に見えるほどの高さで、灰色の絶壁が空を半分塞いでいた。
人が作ったとは思えないほど、でかかった。
父さんの背中が、少しだけ固くなった。
母さんが背嚢の肩紐を、強く握り直した。白くなるくらい、強く。
俺は二人の体の変化を見ながら、何も言わなかった。
城門に近づくにつれて、人の気配が増えた。
街道を行く人間たちの足音。荷車の軋む音。馬の蹄。それが全部、俺の耳に飛び込んでくる。森の静寂に慣れた耳には、頭が割れそうなくらいうるさかった。
城門が見えてきた。石造りの巨大な門だ。両脇に門番が立っていた。鎧を着て、槍を持っていた。通行人を一人ずつ確認していた。ほとんどの人間は軽く見られて通り過ぎていた。
列に並んだ。
ゆっくりと前へ進む。
父さんの体が、歩くたびに少しずつ固くなっていくのが分かった。肩の位置が変わった。首の角度が変わった。俺は父さんの背中を見ながら、その変化を追っていた。
俺たちの番が来た。
門番の視線が、父さんの顔を見た。次の瞬間、動きが止まった。
門番の目が、父さんの首元に向いた。
今日は汗で襟が崩れていた。乱れた布の隙間から、赤黒い焼印が見えた。
門番の表情が変わった。
軽蔑と、嘲りと——それから、どこか安堵したような、残酷な色が混じった。ゆっくりと、父さんを上から下まで見た。荷物を確かめるように。それから、笑った。
「まだ生きてたのか、家畜」
俺の手が、反射的に動いた。
スリングに伸びていた。
次の瞬間、父さんの手が俺の手首を掴んだ。
強くなかった。ただ、そこにあった。
圧力だけがあった。言葉じゃない。声じゃない。手のひらの重さだけが、「今じゃない」と言っていた。
俺は、手を止めた。
父さんは門番を見ていた。目を伏せていた。何も言わなかった。母さんも黙っていた。前を向いたまま、動かなかった。
門番が手を振った。通れ、という仕草だった。
三人で城門をくぐった。
石畳の上に出た。
父さんの手が、俺の手首から離れた。
俺は父さんの隣に並んで、小声で言った。
「次に誰かがそれを言ったら、俺は止まらない」
父さんは答えなかった。
前を向いたまま、歩き続けた。
でも、止めなかった。
止めなかった、ということが、答えだった。
俺は前を向いた。
「今じゃない」。父さんの手がそう言っていた。今じゃない、ということは——今じゃないときがある、ということだ。タイミングがある。今は違う。でもいつかは違う。
今じゃないだけだ。
何もしないんじゃない。
俺はそれを、自分に言い聞かせながら歩いた。
街の中は、音で溢れていた。
市場の声。荷車の音。人々の話し声。全部が一度に耳に飛び込んでくる。森とは全然違う。規則がない。方向がない。あらゆる方向から音が来る。
そして、でかかった。
目の前を歩いている人間が、俺の身長の何倍もある。足一本が、俺の全身より大きい。石畳の隙間を歩きながら、俺は人間の足元を見上げていた。踏まれる、とは思わなかった。でも——小さかった。自分が、こんなにも小さいのだと、改めて分かった。
そのとき、俺は見た。
石畳の端を、小さな人間たちが歩いていた。
三十センチから五十センチくらいの——小人たちだ。
俺と同じ、小人たちが、街にいた。父さんと母さん以外の小人を、生まれて初めて見た。俺は思わず近づきかけて、止まった。
彼らは下を向いて歩いていた。
全員が、目を伏せていた。
端を歩いていた。端を歩かされていた。大きな人間が通るたびに、道を譲った。荷物を持たされている小人もいた。重そうだった。でも誰も文句を言わなかった。誰も、顔を上げなかった。
俺は見ていた。
「父さん」
「歩け」
「あの人たちは——」
「歩け、リト」
父さんの声は、静かだった。怒っていなかった。ただ、疲れていた。何度もそこを歩いてきた人間の声がした。
俺は歩いた。
小人たちの横を通り過ぎながら、俺は下を向かなかった。前を向いたまま歩いた。上を向いたまま歩いた。
誰かがこちらを見た気がした。
小人の一人が、通り過ぎる俺をちらりと見た。目が合いそうになって——その人は、すぐに目を逸らした。石畳の継ぎ目を見た。また俯いて、歩き続けた。
俺はそれを見ながら、歩き続けた。
腹の奥の熱が、静かにそこにあった。
その夜、宿を探した。
一軒目、父さんが首を見せた瞬間に扉が閉まった。
二軒目は主人が出てきて、焼印を確認して、首を横に振った。言葉もなかった。
三軒目は、扉が半分開いた。中から誰かが父さんの首筋を見た。扉が閉まった。それだけだった。
父さんは何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
四軒目で、ようやく部屋を借りられた。街の外れの、窓が小さい薄暗い部屋だった。
三人で荷物を下ろした。母さんが床に座って、目を閉じた。父さんが水袋を取り出して、母さんに渡した。
俺は壁に背を預けて、扉を見た。
「今じゃない」という言葉が、頭の中でまだ鳴っていた。
今じゃない。今じゃない。
——じゃあ、いつだ。
宿の廊下の音が、薄い壁を通して聞こえていた。しばらくして、気づいた。
扉の隙間から、光が遮られている。
誰かが、扉の前に立っていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この物語は、まだ答えに辿り着いていません。
むしろ、わからないことが増えていく段階です。
もし少しでも続きを気にしていただけたなら、
次の話でその“違和感の正体”が少しだけ動きます。
また次回、お会いできれば嬉しいです。




