第6話:三日分の意味
この物語は、ひとつの違和感から始まる少年の記録です。
小さな変化は、やがて世界の輪郭を少しずつ変えていきます。
この章では、その“途中経過”が描かれます。
まだ何もはっきりとは見えませんが、確かに何かが進んでいます。
それでは続きをどうぞ。
腹の奥に、熱が戻ってきていた。
小さく、弱く、でも確かに——鎧熊の肉を噛むたびに、消えかけた火が少しずつ大きくなる。指先の感覚が戻ってくる。頭のぼんやりが晴れていく。
父さんが切り出す。俺が食べる。また切り出す。また食べる。
屋根がない。壁の一部がない。竈は倒れたまま、平らな石の上で肉が焼けている。瓦礫の粉が風に舞って、焼ける匂いと混ざった。それでも三人が揃っていた。俺はそれだけで、少し息ができる気がした。
鎧熊一頭分の肉が半分ほどなくなった頃、ようやく膝に力が入るようになった。
父さんが俺の隣に座った。しばらく、誰も口を開かなかった。朝の光が瓦礫を照らしていた。遠くで鳥が鳴き始めた。森が、少しずつ音を取り戻していた。
俺は肉を食べる手を止めた。
「なんで俺だけに食わせた」
父さんが、動きを止めた。
「三日間。父さんも母さんも、ほとんど食べなかった。俺の皿に全部よこした。なんで」
誰も答えなかった。
母さんが石の上の肉をひっくり返した。脂が弾けた。父さんは膝の上に手を置いたまま、半壊した壁の向こうの空を見ていた。
「お前の力の仕組みを、知っていた」
父さんが言った。
「だから溜めさせた」
それだけだった。
「知っていた、って——」
「それだけだ」
父さんの声が、静かに遮った。怒っているんじゃない。それ以上は話せない、という声だった。この八年間で何度も聞いた、あの声だ。
俺は父さんを見た。父さんは空を見ていた。横顔に、額の傷がある。もう血は止まっていたが、乾いた赤が残っていた。
聞いても答えは返ってこない。分かっていた。
でも今日は、引き下がる気になれなかった。
「俺が招いた」
俺は言った。
「鎧熊を。奴らの縄張りに踏み込んで、仲間を殺して、だから来た。それは分かってる。でも——父さんは最初から知ってた。何かが来るって。だから食わせた」
「……ああ」
「何が来るか、知ってたのか」
父さんが、少しだけ間を置いた。
「分からなかった。いつ来るかも。ただ——いつか来ると思っていた」
「なんで」
答えなかった。
母さんが、動いた。
石の前にしゃがんでいた母さんが、ゆっくりと立ち上がった。エプロンで手を拭いて、俺の方を向いた。それから、自分の髪に手をかけた。
後ろで束ねていた髪を、ほどいた。
肩に落ちた髪を、片手でかき上げた。
襟足が、めくれた。
そこに、焼印があった。
赤黒く爛れた、文字のような形をした焼印。俺が三日前の夜に一瞬だけ見て、それから見なかったふりをしていたもの。母さんがいつも高い襟の服を着ていた理由。俺が「なんでもないのよ」という声を信じたふりをしていた理由。
母さんは動かなかった。
髪をかき上げたまま、俺に見せていた。隠さなかった。
「これがある限り」
母さんが言った。
「私たちは、どこにいても見つかる」
俺は焼印を見た。
火傷じゃない。少なくとも、俺が知っている火傷じゃない。何かの文字に見えた。誰かが意味を持って刻んだ傷に。
「見つかる、って——誰に」
母さんが答えようとした。
「街に行く」
父さんが立ち上がった。
母さんが口を閉じた。髪が、肩に落ちた。焼印が、また髪の下に消えた。
「荷物をまとめろ。動けるうちに出る」
「待って——」
「リト」
父さんが俺を見た。
怒っていなかった。穏やかでもなかった。何かを決めた人間の目だった。この目をするとき、父さんは動く。止められない。この八年間で、それを学んでいた。
俺は口を閉じた。
父さんが荷物を取りに奥へ入った。
俺は母さんを見た。母さんはもう背を向けて、残りの肉を片付け始めていた。髪が首筋を覆っていた。さっきまでそこにあったものが、何事もなかったように消えていた。
——どこにいても見つかる。
その言葉が、頭の中で繰り返された。
俺たちは八年間、この大樹の上に隠れ住んでいた。煙を出すな。音を立てるな。痕跡を残すな。父さんがずっと言い続けてきた言葉だ。魔物から逃げているなら、木の上で暮らせば十分だ。でもそれは——賢い何かをかわし続ける言葉だ。
母さんの首の焼印。
父さんの「いつか来ると思っていた」。
その二つが、今日初めて、一本の線で繋がった。
繋がった先に何があるのか、俺にはまだ分からない。
でも分かることが一つあった。
これは、俺のことじゃない。
父さんと母さんに、俺の知らない何かがある。その何かが、ここに来た。今日の鎧熊は始まりじゃない——終わりでもない。
荷物をまとめるといっても、残っているものは少なかった。
乾し肉。水袋。ナイフ。スリングと川石。着替えが一枚ずつ。
それだけだった。八年間暮らした家が、背嚢一つに収まった。
父さんが先に外へ出た。母さんが続いた。俺は最後に一度だけ振り返った。半壊したツリーハウスが、大樹の上にあった。屋根がなくて、壁が裂けていて、それでもそこにあった。
足が、一瞬だけ止まった。
止めなかった。
夜、父さんが先に眠った。
疲れていた。当然だった。鎧熊の解体を一人でやって、荷物を担いで、ここまで来た。寝息が聞こえてくると、俺は母さんの方を向いた。
母さんは窓の外を見ていた。閉じた窓の、向こうを。
「母さん」
「なに」
「焼印って——」
「寝なさい、リト」
声が、優しかった。優しすぎた。
俺は黙った。
しばらくして、母さんが言った。
「明日はちゃんと食べていきなさい。出発の前に、しっかり食べて」
俺は母さんの横顔を見た。窓の外を向いたまま、母さんは動かなかった。
「……食べる」
「そう」
それだけだった。
俺は目を閉じた。腹の奥の熱が、まだそこにあった。三日分の熱を全部燃やした後なのに、鎧熊の肉で少しずつ戻ってきた熱が、確かにある。
小さい。でも、ある。
食べれば戻る。
戻れば、また戦える。
父さんが「お前の力の仕組みを知っていた」と言った。なぜ知っていたのか、は答えなかった。母さんの首の焼印が何なのか、も答えなかった。街に行く理由も、誰に見つかるのかも、何も答えなかった。
でも今夜、一つだけ答えた。
「いつか来ると思っていた」。
その言葉が、答えのない問いと一緒に、腹の奥の熱と並んで、そこにあった。
眠くなってきた。
今日はいくらでも眠れる気がした。腹が満ちているのと、体の奥が温かいのと、それから——なぜかは分からないが——今夜はもう大樹が揺れない気がした。
あの振動は、もう来ない。
来るのは、別の何かだ。
遠くで、何かが動いた。
森じゃない。もっと規則的な、意図を持った何かが、夜の闇の奥を動いていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この物語は、まだ答えに辿り着いていません。
むしろ、わからないことが増えていく段階です。
もし少しでも続きを気にしていただけたなら、
次の話でその“違和感の正体”が少しだけ動きます。
また次回、お会いできれば嬉しいです。




