第5話:この森で最後の狩り
この物語は、ひとつの違和感から始まる少年の記録です。
小さな変化は、やがて世界の輪郭を少しずつ変えていきます。
この章では、その“途中経過”が描かれます。
まだ何もはっきりとは見えませんが、確かに何かが進んでいます。
それでは続きをどうぞ。
足の裏に、何かが来た。
振動じゃない。もっと低い——地の底から這い上がってくる、冷たい何かだ。俺は縁側から立ち上がった。大樹の幹を伝ってくる感触が、さっきまでと変わっている。重さが違う。密度が違う。
森が、静かだった。
虫の声がない。風もない。地上五十メートルから見下ろす熱帯の夜が、息を止めたみたいに凝固していた。
聞こえる。
この三日間で鋭くなった耳が、暗がりの奥に届いていた。葉が揺れていない。土が踏まれる音がする。何かの呼吸が、複数ある。一つじゃない。二つじゃない——
十。
重い足音が、大樹に向かって一点に収束してくる。群れだ。そして群れの中心、一際大きな何かの胸の奥で、何かが燃えていた。赤黒く、怒りで煮えたぎるような音がした。
俺はスリングを取りに走った。
「父さん、母さん——起きて」
廊下の奥へ向かって声をかけながら、腰のスリングを確かめる。川石の重みが指先に馴染む。腹の奥の熱が、まだある。三日かけて積み上げた熱が、まだそこにあった。
父さんが出てきた。顔を見た瞬間、聞かなかった。父さんはもう状況を理解していた。
「二人とも中に入れ。窓を塞げ」
言いながら、俺は縁側へ戻った。
「リト——」
「時間がない」
暗がりの中に、影が動き始めていた。四メートル。五メートル。六メートル——。鋼鉄の外殻を持つ巨体が、一頭、また一頭と木々の間から現れる。
鎧熊だ。
十頭の鎧熊が、大樹の根元へ向かって進んでいた。
その瞬間、気づいた。
三日間、俺は狩りを続けた。子供の鎧熊を仕留めた。成体の縄張りに踏み込んだ。三頭を立て続けに殺した。俺は「強くなった」と思っていた。でも向こうから見れば——縄張りを荒らされた、ということだ。仲間を殺された、ということだ。
——俺が、招いた。
その自覚が、一瞬だけ頭をよぎった。
次の瞬間には、スリングを構えていた。
一頭目。
首の継ぎ目に狙いを定める。息を吸う。熱を指先に集める。振り抜く。
ヒュン——。
どさり。
四メートルの巨体が、音もなく腐葉土に沈んだ。群れが一瞬、動きを止める。何が起きたか分からない。血もない、音もない、見えない何かが一頭を殺した——上空五十メートルからの狙撃など、あいつらの知覚の外だ。
その隙に、二頭目をセットした。
「残り、九頭」
頭の中で数えながら、振り抜く。一頭が首をもたげた喉元へ、超音速の石弾が吸い込まれる。がくり、と前脚を折って倒れる。
「八頭」
三発目——風にわずかに流れた。石は一頭の耳横を掠めて、装甲の表面を削って弾け飛んだ。
外した。
心臓が跳ねる。でも熊たちはまだ上を見ていない。
四発目。首の側面の継ぎ目へ、正確に。ヒュン、と弾が消え、一頭が膝から崩れた。
「六頭」
石を一発放るたびに、腹の奥の熱が削れていく。胃を絞り上げられる吐き気が来る。視界の端がチカチカと明滅し始める。三日分の熱が、どんどん燃えていく。
五発目。六発目。
「四頭」
七頭目に石を放った瞬間だった。
ゴ、オオオオオ……!
群れの中心から、一際巨大な個体が重い唸りを上げた。
体長六メートルを超える親熊。背中に結晶化した漆黒の装甲がそびえ立ち、赤い瞳が不気味なほどの知性を孕んでギラリと輝いている。
親熊は咆哮しなかった。
全身の外殻をガチリと噛み合わせ、頭部と首元を丸太のような前脚の奥へ深く沈み込ませた。仲間の傷口の角度から、攻撃が遥か「上空」から来ていることを本能で見抜いたのだ。
親熊の首の裏——唯一の弱点が、分厚い鋼鉄の壁の向こう側へ完全に消えた。
二発試みた。カンッと火花を散らして弾き飛ばされた。三発目で視界が歪んだ。
石では、届かない。
腹の奥を確かめる。
残り二発分。
膝が震えている。指先の感覚が遠い。自分の肉と血が燃料として焼き尽くされていく感覚——お腹が空いているという生ぬるいものじゃない。完全な、枯渇だ。
親熊がじりじりと太い爪を大樹に立て、登るルートを探り始めていた。
あの巨体がこの木を登り切れば——俺たちは終わりだ。
床板の縁で、俺は動きを止めた。
石が届かない。退けば、父さんと母さんが死ぬ。
ならば——別の使い方がある。
目を閉じた。腹の奥底でチロチロと燻っている残りわずかな「熱」に意識を集中させる。熱だけじゃない。その熱を使って、空間に干渉する。石の周囲の空気を押し退けてきた、あの薄い膜を——もっと広げたら、どうなる。
石一個の周囲じゃない。
もっと広い範囲を。
もっと強く。
押し退けるんじゃない。
——全部、抜いてしまえ。
頭の中で答えが組み上がった瞬間、俺は薄く笑っていた。
空気を殺せばいい。
体の奥で、残りの熱が一気に動いた。
これまでと違う。指先じゃない。体の中心から、全身の皮膚の外側へ——意識を広げる感覚だ。石の周囲に張っていたあの薄い膜を、何十倍にも引き伸ばす。自分の体を中心に、半径二メートルの球形に、圧力の膜を展開する。
そのまま、収縮させた。
内側に向かって、一気に。
ズン、と空気が鳴った。
膜の内側の空気が、一瞬で押し出された。真空が生まれた。六メートルの親熊を包む空間が、突然、何もない場所になった。
親熊の体が、揺れた。
外殻の継ぎ目から、細い音が鳴った。装甲の隙間を満たしていた空気が消えた。外側からの大気圧だけが、全方向から親熊の体を押しつぶしにかかった。
外殻が、軋む。
鋼鉄が、ミシリと鳴った。
親熊が咆哮しようとした——音が、出なかった。肺の中の空気が行き場を失って、声にならなかった。六メートルの巨体が、前脚から崩れ落ちていった。
どさり。
地面に横たわった。
真空の膜が解ける。空気が戻ってくる。世界の音が、一気に耳に戻ってきた。
俺はその場に膝をついた。
体の奥が、空だった。
三日間かけて積み上げた熱が、全部燃え尽きていた。指先の感覚が消えた。視界が揺れた。床板の上に手をついて、それでも前のめりに倒れそうになるのを、腕一本で堪えた。
十頭。
全部、倒した。
「やった」とは思わなかった。
腹の中に残っているのは、熱じゃなかった。
——俺が、招いた。
戦闘の最中に一瞬だけよぎったその言葉が、静かに戻ってきた。強くなりたかった。もっと食べたかった。奥まで踏み込んだ。それが全部、この十頭を呼んだ。
誇らしさも、達成感も、何もなかった。
ただ、重かった。
「リト」
父さんの声がした。
振り向く力もなかったが、足音で分かった。父さんが近づいてくる。隣に膝をついた気配がした。
「よくやった」
声が、震えていた。
俺は父さんの方を向けなかった。向こうも、俺の方を向いていないかもしれなかった。二人とも、眼下の森を見ていた。十頭の鎧熊が、根元に横たわっていた。
「よくやった」と父さんはもう一度言った。
いつもより低く、震えていた。褒めているのか、謝っているのか、分からない声だった。
俺はそれを聞きながら、膝の上に手を置いた。腹の奥が空だった。全部燃やした後の、からっぽの感覚だった。
明日からは、また食うしかない。
食べなければ、何も守れない。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この物語は、まだ答えに辿り着いていません。
むしろ、わからないことが増えていく段階です。
もし少しでも続きを気にしていただけたなら、
次の話でその“違和感の正体”が少しだけ動きます。
また次回、お会いできれば嬉しいです。




