第10話:十三年ぶり
この物語は、ひとつの違和感から始まる少年の記録です。
小さな変化は、やがて世界の輪郭を少しずつ変えていきます。
この章では、その“途中経過”が描かれます。
まだ何もはっきりとは見えませんが、確かに何かが進んでいます。
それでは続きをどうぞ。
来た。
俺の耳が捉えた瞬間、体は動いていた。
「起きろ」
小声で言いながら、荷物を掴んだ。ミラが目を覚ました。ルカが身を起こした。父さんと母さんはすでに起きていた——眠っていなかったのかもしれない。
「足音。複数。鎧を着てる。近い」
父さんが裏口を見た。
「裏から——」
間に合わなかった。
扉が吹き飛んだ。
石造りの扉が、外側から一撃で蹴破られた。粉塵が舞った。破片が床を叩いた。俺はミラとルカの前に出た。
鎧の男が入ってきた。
でかかった。普通の人間より頭一つ分でかい。全身を金属で覆っていた。その後ろに、同じような男が三人いた。四人。全員が武装していた。
男は部屋を見渡した。
父さんを見た。
笑った。
「見つけたぞ」
低い声だった。
「十三年ぶりだな」
父さんの体が、一瞬だけ固まった。俺は父さんの背中でそれを見た。肩が、ほんの少し、落ちた。
「よく逃げた。感心するよ。だがもう終わりだ」
俺はスリングを引き抜いていた。
石をセットした。男の首筋の継ぎ目を確認した。鎧の隙間。膝の裏。脇の下。四人分の弱点を、目が勝手に拾っていた。
父さんが俺の前に出た。
「リト、動くな」
「でも——」
「動くな」
父さんの声が、静かに遮った。
俺は動かなかった。
スリングを構えたまま、動かなかった。
頭は動いていた。
四人。今の熱量で四人を相手にしたら、どうなる。一人目の首筋を狙えば倒せるかもしれない。でも次の瞬間、残り三人が動く。父さんと母さんを人質にされたら、終わりだ。スリングを使えなくなる。熱を使い切る前に、詰む。
計算が出た。
今じゃない。
俺はスリングを下ろさなかった。ただ、撃たなかった。
「抵抗するな。おとなしく来い」
男が言った。
「子供たちは関係ない」
父さんが言った。前に出たまま、動かなかった。
「それを決めるのは俺じゃない」
「子供たちを放せ。俺たちだけ連れて行け」
「お前に交渉権はない」
父さんが一歩前に出た。男が槍を構えた。
「俺とこいつだけだ」父さんが母さんの手を取った。「俺たちが逃亡者だ。子供たちは関係ない。小人の子供が三人いるだけだ」
男が父さんを見た。
長い沈黙だった。
俺はその沈黙の間、男の目を見ていた。計算している目だった。損得を計算している。子供三人を連れ帰る手間と、逃亡者二人を確保する利益と。
「……子供たちは捨て置く。お前たち二人を連れ帰れば、依頼は果たせる」
「約束するか」
「俺の言葉が信用できなければ、ここで死ぬか」
父さんが母さんを見た。
母さんが、頷いた。
「分かった」
父さんが両手を上げた。
「父さん——」
「リト」
父さんが俺を見た。
目が言っていた。頼む、と言っていた。
頼む——何を。
俺は父さんの目を見ながら、頭の中で動き続けていた。今じゃない。今じゃない。でも——今この瞬間、俺にできることが、一つだけある。
父さんの懐だ。
地図がある。父さんが八年間、肌身離さず持っていたものだ。月明かりの中でテーブルに広げていたものだ。あの赤い丸と、母さんの首の焼印と、同じ記号が刻まれていたものだ。
あれが俺の手にあれば——行き先が分かる。
男の部下が父さんの腕を掴んだ。もう一人が母さんの腕を掴んだ。
その瞬間、俺は動いた。
スリングを構えたまま、父さんの横へ走った。飛びかかるような動きだった。男たちの視線が一瞬、俺に集まった——小人の子供が何をするのか、という油断まじりの注意が。
その一瞬だけ、父さんの懐が俺の手の届く場所にあった。
時間が、遅くなった気がした。
父さんの服の布地が指先に触れた。懐の内側を探る。固い。紙だ。父さんの呼吸が、俺の手のひらに伝わってきた。震えていなかった。
掴んだ。
引いた。
抜けた。
父さんの目が、俺を見た。
一秒だった。その一秒の中に、父さんが何かを確かめるような間があった。止めなかった。止める気がなかった。ただ、もう一度だけ、頷いた気がした。
「やめろッ」
俺は叫んだ。スリングを男に向けた。男が身構えた。
父さんが俺を見た。引かれながら、俺を見た。
笑っていた。
何かを成し遂げた人間の顔で、笑っていた。
「食べろよ」
父さんが言った。
「ちゃんと、食べろよ」
それだけだった。
部下が父さんを引きずるように連れ出した。母さんが引かれながら、一度だけ振り返った。何も言わなかった。でも目が、ミラとルカを見た。俺を見た。頼む、と言うみたいに。
扉の向こうに、二人が消えた。
廃屋に沈黙が落ちた。
遠ざかる足音が聞こえていた。複数の鎧の音。荷馬車が動き始める音。車輪が石畳を叩く音。それが少しずつ小さくなって、やがて、聞こえなくなった。
完全に、聞こえなくなった。
ミラが泣いていた。声を殺して泣いていた。
ルカが地面を拳で殴った。一回。また一回。黙って、殴り続けた。
俺は廃屋の中に立ったまま、右手に握ったものを見た。
紙だった。
折り畳まれた、古い紙だった。
広げた。
地図だった。この街より、ずっと広い範囲が描かれていた。山がある。川がある。いくつかの街が点在している。そして端に——赤いインクで、丸がついていた。
丸の中に、記号があった。
俺は息を止めた。
その記号を、知っていた。
母さんの首に刻まれていた焼印と、同じ形だった。
「リト」
ミラが声をかけてきた。泣きながら、俺を見ていた。「どうするの」
俺は地図を見た。
赤い丸の位置を確認した。この街から、かなり東だ。山を越えて、川を渡って——遠い。でも、ある。場所がある。
「東だ」
俺は言った。
ミラが俺を見た。ルカが地面を殴るのをやめた。
「父さんと母さんを取り返す。そのためにはまず、あいつらがどこへ連れて行くのかを知らないといけない。この地図に、答えがある」
「一人で?」
「三人で行く」
俺はミラを見た。ルカを見た。
「危ない」とミラが言った。
「知ってる」
「あたしたち、足手まといになるかもしれない」
「なるかもしれない。でも俺一人より、三人の方が遠くまで行ける。お前たちには耳がある、目がある、この街を知ってる。俺には熱がある。お前たちの知らないものが」
ミラが少し黙った。
ルカが顔を上げた。地面を殴っていた拳が、赤くなっていた。
「行く」とルカが言った。声が、思ったより低かった。「俺も行く」
ミラがルカを見た。それから俺を見た。
「あたしも行く」
俺は地図を折り畳んだ。懐にしまった。
父さんが持っていたものだ。父さんが八年間、大事に持っていたものだ。俺に見せなかったものだ。でも今夜、父さんは止めなかった。
止めなかった、ということが——渡した、ということだ。
「今夜中に街を出る」
俺は言った。「食料を確認しろ。水も。動けるものだけ持て」
三人が動き始めた。
俺は廃屋の割れた窓から、夜の街を見た。
父さんの最後の言葉が、頭の中でまだ鳴っていた。
食べろよ。ちゃんと、食べろよ。
分かってる。
腹の奥の熱を確かめた。戦闘で使っていない。鎧熊の肉で戻した熱が、まだそこにあった。足りない。全然足りない。もっと食わないといけない。もっと溜めないといけない。東へ行くなら、もっと強くならないといけない。
でも今夜は、これで動く。
「行く」と俺は言った。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この物語は、まだ答えに辿り着いていません。
むしろ、わからないことが増えていく段階です。
もし少しでも続きを気にしていただけたなら、
次の話でその“違和感の正体”が少しだけ動きます。
また次回、お会いできれば嬉しいです。




