表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/10

第6話

喫茶店で会ってから、もう三週間が過ぎた。


 メールを送っても、返事は一週間に一度くらい。


 生活のリズムは私とはまるで逆だった。


 悠真さんは夜に仕事をして、朝方眠るらしい。


 夜の方が集中できると言っていた。


 ゲームのデザインや音楽を作っているようだったが、詳しいことは話さなかった。


 あまり詮索して嫌われるのも嫌だったので、それ以上は聞かなかった。


 メールが返ってくるのは決まって早朝。


 きっと仕事を終えた後なのだろう。


 とはいえ、まだ返事は三回しか来ていない。


 ある日、私はふと思った。


 ――もし、これが恋だとしたら。


 そう考えた瞬間、自分の顔が熱くなっていることに気付いた。


 胸も少しだけ高鳴る。


 私は恥ずかしながら、恋をしたことがない。


 だから、これが恋なのかどうかも分からなかった。


 もし恋だとしたら……。


 片思いって、こういう気持ちなのかな。


 そう思うと、自分がおかしくなって思わず笑ってしまった。


「何、一人でにやけてるの」


 母が笑いながら言った。


「まったく。恋する乙女はどうしようもないね」


「母さん……」


 私は少し照れながら笑った。


「うん?」


 私は、傘を返した日のことを母に話した。


「私が傘を返した時ね、悠真さんが『半年間も僕の傘を預かっていてくれたんですね』って言ってくれたの」


 母はしばらく黙っていた。


 そして、小さく一言だけ言った。


「いい人なんじゃない?」


 私は静かにうなずいた。


 きっと、長い人生の中で、いろいろな人を見てきた母だからこそ出てきた言葉なんだろう。


 母はそれ以上何も言わなかった。


 ただ、私の背中を軽く押した。


「ほら、会社。行ってらっしゃい」


「行ってきます」


 それから数日後。


 四回目のメールの返事が届いた。


『今度、お時間があれば、またあの喫茶店でお話ししませんか。』


 胸が高鳴った。


 一か月ぶりに会える。


 当日、悠真さんは少しずつ自分のことを話してくれた。


「東京で仕事をしていたんです」


 静かにコーヒーを口へ運ぶ。


「職場でいろいろあって……人間不信になりました」


 その言葉は、とても静かだった。


「裏切られたり、騙されたり……いろいろありました」


 少し間を置いて、彼は続けた。


「でも、僕にも悪いところがあったと思うんです」


 私は顔を上げた。


「作品にこだわり過ぎて、人の意見を聞こうとしなかったところもありましたから」


 その言葉に、私は誠実さを感じた。


 人は、自分の悪かったところを認めるのが一番難しい。


 それを、この人は自然に話している。


「そんな時、この近くに住んでいる知り合いから『こっちへ来ないか』って誘われたんです」


「仕事はネットでできますし、何かあった時は近くにいた方がいいって」


 彼は窓の外へ目を向けた。


「それに……静かな所で暮らしたかったんです」


 私は思わず笑った。


「でも、この町、何にもないですよね」


 彼も笑う。


「本当に。びっくりするくらい何もないですね」


 二人で笑った。


 その笑いは、不思議と心地よかった。


 少しして、彼は静かに言った。


「付き合っていた彼女にも裏切られました」


 私は一瞬だけ動揺した。


 三十歳なら彼女がいても不思議ではない。


 そう自分に言い聞かせながら、心を落ち着かせた。


 でも、その時、私は思った。


 この町へ来た一番の理由は、そのことだったんだ。


 彼は少し照れくさそうに笑った。


「恥ずかしい話なんですが……」


 そして、私を見つめた。


「あの日、僕は泣きそうになったんです」


 私は驚いて顔を上げた。


「半年間も、あの透明な傘を持ち歩いてくれていた」


 彼はゆっくりと言葉を続けた。


「そんな誠実な人に、僕は今まで会ったことがありませんでした」


 その一言が、私の胸の奥へ静かに染み込んでいった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ