第5話
笑いが落ち着いた頃、彼は少し真面目な表情になった。
「僕、一つ思ったんですけど……」
「はい」
「もしかして、あの傘……ずっと持ち歩いてくれていたんですか?」
私は小さくうなずいた。
それだけで十分だった。
彼は静かに息をつき、少しだけ目を潤ませた。
「大変だったでしょう」
私は首を横に振る。
すると彼は、少し震えた声で続けた。
「ごめんなさい。僕、あんなことを言ってしまって……」
その一言が胸に響いた。
半年間。
晴れの日も、雨の日も。
傘を持ち歩いてきた私のことを、そんなふうに思ってくれる人がいる。
その優しさが、何よりもうれしかった。
私は思わず涙をこぼした。
彼も少し困ったように笑いながら、目元をぬぐっていた。
――やっぱり、毎日持ち歩いてよかった。
私は心の中で、そっとつぶやいた。
翌週の月曜日。
悠真さんに傘を返して初めての出勤だった。
更衣室へ入ると、同僚の三咲が私を見るなり言った。
「あれ? 傘は?」
私は晴れの日でもあの透明な傘を持ち歩いていた。
ロッカーへしまう姿を毎日見ていた三咲は、すぐに気付いたらしい。
一瞬、どう答えようか迷う。
「ついに諦めた?」
三咲は笑った。
「まあ、仕方ないよ。でも、あそこまで大事にしてきたんだから、傘も本望じゃない?」
私の表情を見て、三咲は目を丸くした。
「えっ……まさか」
私は小さくうなずいた。
「会えたの?」
もう一度、小さくうなずく。
平静を装おうとしても、頬が自然と緩んでしまう。
「よかったじゃない!」
三咲は自分のことのように笑った。
「相手の人、びっくりしてたでしょ」
「うん」
「お疲れさま」
「ありがとう」
三咲はどこか納得できないような表情を浮かべながら、自分の持ち場へ向かって行った。
それからだった。
私は仕事中、ぼんやりすることが増えた。
工場長にも、
「藤村、最近どうした?」
と声を掛けられることが何度かあった。
昼休み。
社員食堂には何百人もの社員が集まってくる。
三咲がいつものように私の隣へ座った。
「ねえ、栞」
「なに?」
「工場長が心配してたよ。『藤村、最近ぼーっとしてることが多い』って」
私は苦笑した。
「何かあったの?」
「うん」
あまりにも素直に答えてしまった。
三咲は目を丸くする。
「えっ?」
少し身を乗り出して、小声になった。
「まさか……社内恋愛?」
「えっ?」
「同じ部署の人?」
私は首をかしげる。
「だって、バレたら異動になることもあるんだから」
「えっ?」
話が全然見えない。
三咲は真剣な顔で続ける。
「あなた、更衣室まで変わったら困るんだからね」
私は思わず吹き出した。
「違う、違う」
「え?」
「そんなわけないでしょ」
三咲もようやく笑った。
「よかったぁ」
「三咲とは離れないよ」
「安心した」
しばらく笑ったあと、三咲は少し真面目な顔になった。
「じゃあ、お母さん? 具合でも悪いの?」
私はまた笑ってしまった。
本当に違う。
その時だった。
私は、ようやく気付いた。
仕事中も。
家に帰ってからも。
休日も。
ぼんやりしてしまう理由に。
私は――。
悠真さんのことばかり考えていた。




