第4話
そんなある日。
ついに、その時が訪れた。
私はいつものように電車を降り、改札を抜けた。
そして――。
いた。
あの人だ。
胸が大きく鳴る。
私は思わず小走りで駆け寄った。
近づくにつれて、あの日の面影が鮮明によみがえってくる。
その日も雨だった。
彼は駅の軒下で雨宿りをしていた。
私はゆっくりと彼の隣に立ち、そっと顔をのぞき込んだ。
彼は私に気付き、一瞬驚いた表情を見せた。
まるで突然声を掛けられるとは思っていなかった、そんな顔だった。
私は何も言わず、一本の透明な傘を差し出した。
「以前、あなたにお借りした傘です」
彼は傘と私の顔を見比べる。
「返しに来ました。あの時は、本当に助かりました。ありがとうございました」
私は深く頭を下げた。
きっと覚えていない。
半年も前のことだ。
それでもよかった。
会えた。
返せた。
それだけで胸がいっぱいだった。
しばらく傘を見つめていた彼が、小さく笑った。
「ああ……あの時の」
思い出してくれた。
でも、きっと合わせてくれただけだろう。
そう思った。
しかし、次の言葉で、その考えは間違いだったことを知る。
「半年前ですよね」
私は顔を上げた。
「あの日は、僕が初めてこの町に来た日だったんです。だから覚えています」
胸が熱くなる。
「今まで持っていてくれたんですか?」
私は言葉にならず、小さくうなずいた。
なぜだろう。
涙が込み上げてきた。
彼の一つ一つの言葉が、胸の奥へ静かに染み込んでいく。
その時だった。
「あれ?」
彼の視線が私の手元へ向く。
私が持っているもう一本の傘。
今日使っている自分の傘だった。
彼は少し驚いたように目を丸くする。
「まさか……」
そして、小さくつぶやいた。
「雨の日も持ち歩いてくれていたんですか?」
その一言で、私はもう我慢できなかった。
涙があふれた。
まるで長い間会えなかった恋人と再会したみたいに。
泣いているのは私だけだったけれど。
彼は静かに透明な傘を受け取った。
「ありがとうございます」
そう言って微笑む。
「半年もの間、僕の傘を預かっていてくれたんですね」
しばらく沈黙が流れた。
雨音だけが二人を包んでいる。
やがて彼は少し照れたように笑った。
「あなたみたいに誠実な人がいるんですね」
私はもう一度、「ありがとうございました」と頭を下げた。
彼も静かに笑い返した。
私は鼻歌まじりで家へ帰った。
玄関を開けると、母がこちらを見た。
何も言わない。
でも、不思議そうな顔をしている。
私は二階で着替えを済ませ、夕食の支度を始めた。
「会えたのね」
包丁を持つ手が止まった。
「えっ? 誰に?」
「傘の人」
私は少し照れくさくなって笑った。
「うん。やっと返せた」
そして、わざと軽く言った。
「ああ、これで肩の荷が下りた」
でも、その言葉とは裏腹に、頬が自然と緩んでしまう。
隠そうとしても隠せない。
母には全部分かっているのだろう。
私がちらりと母を見ると、母は安心したような、それでいて少し寂しそうな、複雑な表情を浮かべていた。
そして日曜日。
駅前の小さな喫茶店。
「はははっ、そんなことあります?」
「ですよね。まるでお笑いですよね」
二人で顔を見合わせて笑った。
店内には、穏やかな笑い声が響いていた。
私の向かいには、高橋悠真さんが座っている。
半年越しに、やっと傘を返すことができた人だ。
「じゃあ、僕が駅へ行った三回とも会ってるんですね」
「えっ?」
「僕、基本的にネットで仕事をしているので、ほとんど家から出ないんです。近くのコンビニや定食屋へ行くくらいで、駅へ行くことなんてほとんどありません」
私は驚いて聞いていた。
「最初にこの町へ来た日。それから一か月後に会社との契約。そして今日」
彼は笑いながら続けた。
「つまり、駅へ行った三回とも藤村さんに会ってることになります」
「じゃあ……」
私は思わず笑った。
「百パーセントの確率ですね」
「そういうことになりますね」
二人はまた笑った。




