第3話
帰り道、私の足取りは重かった。
バッグも重い。
傘も重い。
駅から家までは少しだけ上り坂になっている。
いつもなら何とも思わない坂なのに、その日はやけに長く感じた。
まるで神社の石段を登っているようだった。
ようやく家に着くと、母が私の顔を見て首をかしげた。
「元気ないね。どうかした?」
私は靴を脱ぎながら曖昧に笑った。
「別に」
「まるで彼氏に振られた時みたいな顔してるけど」
母は冗談めかして言った。
「まさか、本当に振られたの?」
私は思わず吹き出した。
「彼氏なんていないよ」
そう言いながら、ふと思った。
そうか。
好きな人に振られた時って、こんな気持ちなのかもしれない。
おかしいな。
ただ傘を返したかっただけなのに。
どうして、こんなに落ち込んでいるんだろう。
翌朝だった。
出勤しようとして、私は違和感に気付いた。
玄関に置いてあったはずの透明な傘がない。
「あれ?」
私は辺りを見回した。
ない。
どこにもない。
「母さん!」
思わず大きな声が出た。
「ここにあったビニール傘、どうしたの?」
母は平然と答えた。
「ああ、捨てたわよ」
「え?」
「もういいでしょ、あんな傘」
私は慌てて外へ飛び出した。
ちょうどゴミ収集車が来ていた。
集積所に積まれたゴミ袋を見つける。
あった。
透明な傘の持ち手が少しだけ飛び出していた。
私は反射的に袋から引き抜いた。
ほっと胸をなで下ろす。
その時だった。
「母さん!」
私は振り返った。
「絶対に捨てないでね!」
母が驚いた顔をする。
「え?」
「捨てたら家出するから!」
言ってから自分でも驚いた。
こんな強い口調で母に言ったのは初めてだった。
母は何も言わなかった。
ただ、少し寂しそうな顔をした。
母の気持ちは分かっていた。
毎日毎日、その傘を大事そうに持ち歩く私。
そして、その傘一つで落ち込んだり喜んだりする私。
きっと心配だったのだろう。
それでも私は譲れなかった。
返すまでは。
ちゃんと会って返すまでは。
それから母は傘のことを何も言わなくなった。
私も何も言わなかった。
ただ、毎日持ち歩いた。
職場へ行く時も。
買い物へ行く時も。
母と散歩へ行く時も。
母はめまい持ちだった。
医者からは、できるだけ外へ出て遠くを見るようにと言われている。
だから天気の良い日には、一緒に歩くことが多かった。
その時も私は必ず透明な傘を持っていた。
母が時々ため息をついているのも知っていた。
でも仕方がなかった。
気付けば、その傘は私の体の一部みたいになっていたから。
そうして。
あの人に傘を借りてから、半年が過ぎようとしていた。
私はさすがに諦め始めていた。
正直に言えば、傘は少し重荷にもなっていた。
どこへ行くにも持ち歩くのだから当然だ。
それでも手放せなかった。
あの日。
一か月後に一度だけ見かけた後ろ姿。
改札の警告音。
目の前で走り去っていったタクシー。
あの時の後悔だけが、どうしても消えてくれなかった。




