第94話 「減った麦俵と、共同蔵の番人」
――盗まれたのは食料か、それとも町の信頼か――
空の椀が描かれた食札を受け取った少年は、翌朝から共同炊事場で働き始めた。
誰よりも早く起き、水桶を運び、食べ終えた椀を洗う。
名前を尋ねても、少年は首を振るだけだった。
「何て呼んだらいい?」
茶太郎が尋ねると、少年は少し考えた。
「……昔、ハチって呼ばれてた気がする」
「じゃあ、思い出すまではハチでいい?」
少年は小さく頷いた。
京鈴は何も言わず、ハチへ乾いた手拭いを渡した。
二人とも家の名を語らない。
それでも同じ炊事場に立つことはできた。
◆合わない麦の数
その日の昼、共同蔵から太常の鋭い声が響いた。
「合いません」
升と帳面を手にした太常が、麦俵の前に立っていた。
「昨日までに使ったのは二斗と七升。残っている量は、帳面より四升ほど少ない」
宗白の顔が険しくなる。
「量り間違いやないのか?」
「三度量りました」
炊事場に緊張が走った。
「誰かが持ち出したんや」
「食札を作ったところで、蔵から盗られたら意味ないやろ!」
「昨日から来た、あの子と違うんか?」
誰かの声に、ハチの肩がびくりと震えた。
少年は濡れた手を握りしめた。
「ぼく……取ってへん」
「名前も家も分からん子やぞ」
洛が低く唸る。
だが茶丸は、人々ではなく蔵の床へ鼻を近づけていた。
『茶太郎。決めつける前に、地を見ろ』
茶太郎はハチの前に立った。
「まだ誰が取ったか、何が起きたか分からないよ」
太常も帳面を閉じた。
「疑いと事実は別です。まず、失われた理由を数えます」
◆蔵を調べる子どもたち
宗白は蔵の出入りを止め、皆で中を調べることにした。
京鈴は壁へ耳を当てる。
「……かり、かり……小さい音」
希太の耳がぴんと立った。
「にゃっ」
俵の裏から、小さな鼠が飛び出した。
こたろが追いかけようとして米糠の袋につまずき、鼠は壁の穴へ逃げ込んだ。
「鼠が全部食べたんか?」
かん太が俵を持ち上げる。
底には幾つもの小さな穴が開き、麦粒が床板の隙間へ落ちていた。
しかし、それだけではない。
ナギが床下を覗き込む。
「……みず……ちかい。ゆか……しめってる……」
俵の下部には湿りが広がり、一部の麦から嫌な匂いがしていた。
カイが灰色の指で床をなぞる。
「ここ、夜になると冷たい。朝になると、汗かいてる」
昼夜の寒暖差で、蔵の内側へ湿気が溜まっていたのだ。
さらにレオが、俵の口からこぼれた麦を数える。
「……縄……ゆるい。運んだときにも……落ちたかも……」
盗人は一人ではなかった。
鼠、湿気、緩んだ縄、床板の隙間。
小さな損失が重なって、四升の麦を消していた。
ハチは俵の陰から、腐りかけた麦粒を拾った。
「これ……洗ったら食べられる?」
茶太郎は匂いを確かめ、首を振った。
「だめ。傷んだ麦は、煮ても安全には戻らない」
「でも、捨てたら……」
「もったいなくても、食べて病気になったら、もっと多くの食料と人手が失われる」
玄武がゆっくり目を開いた。
「保存とは……残すことだけではない。捨てるべきものを……見分けることでもある」
◆床から離す、壁から離す
甚八は曲がった柱材を組み直し、低い台を作った。
俵を床へ直に置かず、その上へ並べる。壁との間にも隙間を空け、空気が通るようにする。
床板の穴は、焼けた武具から打ち直した金具と板で塞いだ。
希太と茶丸は蔵の見回り役になった。
「にゃ……(任せて)」
『麦を狙う鼠は、私が止める』
茶丸が胸を張ると、希太も負けじと尻尾を立てた。
京鈴は蔵の音を朝夕に確かめる。
カイは湿りを見つけ、レオは俵ごとの重さを記録する。こたろとかん太は、縄が緩んでいないか二人で確認する役になった。
ハチは床へ落ちた麦を掃き集めるだけでなく、俵の穴へ小さな木札を差した。
「ここから漏れてたって、あとで分かるように」
太常が、その木札を見つめる。
「よい方法です。穴を塞ぐだけでは、原因が分からなくなりますから」
初めて褒められたハチは、照れたように俯いた。
◆疑った者の椀
夕方、共同炊事場に麦団子の根菜汁が並んだ。
ハチを疑った男が、居心地悪そうに列の前へ立つ。
「坊主……悪かったな」
ハチは返事をしなかった。
男も、それ以上は言葉を探さなかった。
代わりに自分の椀から麦団子を一つ取り、ハチの椀へ入れた。
謝罪とも、償いとも言わない。
だが、ハチはその団子を戻さなかった。
「……明日、蔵の台を作るなら、ぼくも手伝う」
「ああ。頼む」
二人は同じ鍋の前へ座った。
言葉にできない後悔も、料理を挟めば、相手へ届くことがある。
◆共同蔵の決まり
宗白は、蔵の入口へ新しい板を掲げた。
一、入れた量と出したと量を記す。
二、俵を床と壁から離す。
三、鼠、湿り、匂い、縄を毎日確かめる。
四、一人で蔵を開けない。
五、傷んだものを隠さない。
その下には、子どもたちの名と役目が記された。
京鈴——音。
レオ——数。
カイ——湿りと灰。
こたろ——縄。
ハチ——穴とこぼれ。
茶丸と希太——鼠の番。
空の空椀しか持たなかったハチに、初めて町の中での役目ができた。
茶太郎は新しい台へ載せられた麦俵を見上げた。
共同蔵が守るのは、食料だけではない。
疑う前に調べること。
失敗を隠さず記録すること。
名も家も分からない者へ、役目と居場所を渡をすこと。
それもまた、冬を越すために必要な備えだった。
その夜、蔵の外に見慣れない荷車が止まった。
荷台には、丹波から届いた雑穀の俵。
だが運び手は、雪まみれの顔で告げた。
「北の道が、崩れかけとる。次の荷は……いつ届くか分からへん」
共同蔵へ食料が増えたその日に、次の流れが途切れようとしていた。
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共同蔵の麦が減ったとき、最初に疑われやすいのは、家や名を持たないハチでした。しかし原因を調べる前に犯人を決めてしまえば、食料だけでなく町の信頼まで失われます。
ハチは、小さな穴やこぼれを見つける役目を得ました。空椀しか持たなかった少年が、共同蔵を守る仲間になった回です。
その夜、食料は届きましたが、丹波から続く道が途切れようとしています。




