第93話 「五つの冬支度と、名のない食札」
――足りない食料を、奪い合わず春までつなぐ――
雪が下京の焼け跡を白く覆った朝、宇治から最初の荷車が到着した。
積まれていたのは、米ではない。
大麦、豆、蕪、干し大根。それに、味噌を詰めた小さな樽だった。
「米は、これだけか……」
集まった人々の間から、落胆の声が漏れる。
白米が届くと思っていた者も多かったのだ。
墨屋宗白は荷を数え、険しい顔で帳面を閉じた。
「この量では、皆へ白い飯を配れば十日と持たぬ」
「十日でもええ! 腹を満たしてくれ!」
「子どもが三日も粥ばかりなんや!」
人々が荷車へ詰め寄る。
豆しばの洛が前へ出て唸ったが、茶太郎はその背をそっと撫でた。
「怖がらせたらだめ。みんな、お腹が空いてるんだ」
だが茶太郎も、積まれた俵を見て胸が苦くなった。
亜空間収納を使っても、食料そのものは増えない。
水で粥を延ばしても、腹を満たす力まで生まれるわけではない。
そのとき、太常が荷車の横へ現れた。
小さな帳面と升を持つ、十二天将の蔵奉行である。
「米一俵、大麦三俵、豆一俵。蕪七十六、干し大根百二十一束」
「そんなに細こう数えて、腹が膨れるんか」
男の一人が吐き捨てた。
太常は表情を変えなかった。
「数えなければ、誰が明日食べられなくなるかも分かりません」
その背後では、玄武が眠たげな目で俵を見ていた。
「今日すべて食えば……明日の命を失う」
黒蛇の方が、疑り深く周囲を睨む。
「せやけど、蔵へ入れたまま腐らせても同じやぞ」
「だったら、食べ方と残し方を一緒に決めよう」
茶太郎は荷車の前へ進み出た。
◆冬を越す五つの仕事
宗白は地面へ板を置き、炭筆を取った。
茶太郎たちが考えた冬支度を、町の者にも見えるように書き出していく。
一つ目。
米だけを炊かず、大麦、豆、雑穀、根菜と合わせること。
二つ目。
焼け跡の安全な空き地へ高い畝を作り、蕪や冬菜を育てること。
三つ目。
大根や蕪を干し、魚は塩や煙で傷みにくくし、余った飯は乾かして保存すること。
四つ目。
共同炊事場の二段竈と保温煮箱を使い、薪と炭を節約すること。
そして五つ目。
食料を共同蔵へ集め、食札と帳面で公平に分けること。
「食べ物を増やす術やない」
宗白は人々を見渡した。
「今ある物を、春まで絶やさぬための取り決めや」
支援を求める書状も、すでに各地へ送られていた。
宇治、伏見、南山城からは麦、米、豆。
近江の湖と大津からは、水運で運べる穀物。
丹波や北山からは雑穀、炭、材木。
堺へ逃れた商人や町衆にも、塩や干物を融通してもらえないか頼んでいる。
だが、雪や戦で道が閉ざされれば、届かない荷もある。
「来るか分からない荷を、もう蔵にあるつもりで数えてはいけません」
太常が釘を刺した。
茶太郎は頷いた。
「届いた物だけで、まず今日の鍋を作る」
◆麦団子の根菜汁
茶太郎は大麦の一部を、宇治で挽いてきた粗い粉と合わせた。
そこへ少量の小麦粉と水を加え、レオと京鈴が小さな団子に丸めていく。
「丸を大きくしすぎたら、中まで煮えへん」
京鈴が言うと、こたろは自分の大きな団子を慌てて半分にした。
「ぼくのだけ、お腹壊すところだった〜!」
鍋には水へ浸した粒麦と豆を入れ、蕪、干し大根を加える。
二段竈でしっかり煮立たせてから、保温煮箱へ移す。仕上げに再び火へかけ、味噌を溶き、麦団子を落とした。
米の少ない汁だった。
それでも粒麦と豆を噛めば腹にたまり、根菜の甘みと味噌の香りが身体を温めた。
「白い飯やないのに……力が戻る」
甚八が椀を置く。
お寅婆は鼻を鳴らした。
「冬越しの飯は、見栄で食うもんやない。明日も働けるかどうかや」
茶太郎は、子ども用の椀へ麦団子を一つずつ余分に入れた。
成長する子ども、病人、妊婦、力仕事をする者。
皆へ同じ量を配ることが、必ずしも公平ではない。
天后が、炊き出しの列を静かに見つめていた。
「その割付に、名を持たぬ者の場所はありますか?」
◆札を持たない子
列の最後に、見知らぬ少年が立っていた。
年は京鈴より少し上。裸足で、破れた筵を肩へ巻いている。
番をしていた男が手を出した。
「食札を見せろ」
少年は俯いた。
「……ない」
「どこの町や。家の名は?」
「……分からへん」
「札がなければ配れん。二度もらう者が出たら、皆が困る」
男の言葉は間違っていなかった。
だが、少年の腹が小さく鳴った。
京鈴は、自分の食札を握りしめる。
かつて彼女も、宗派を聞かれるたびに名前を変えていた。
「この子……嘘ついてへん」
「それだけでは帳面に載せられん」
宗白は苦しそうに言った。
茶太郎は少年の前へしゃがみ込んだ。
「名前を思い出せなくても、お腹は空くよ」
「しかし、決まりをなくせば蔵が空になる」
太常が答える。
「決まりをなくすんじゃない」
茶太郎は新しい木札を一枚取り出した。
そこへ名前の代わりに、小さな空の椀を描く。
「名が分からない人のための札を作るんだ。受け取った場所と日を帳面に残す。あとで名前や町が分かったら、書き足せばいい」
宗白はしばらく黙っていた。
やがて、空椀の印を帳面へ写す。
「名なし札、一枚。受け取りは一日一度。身元が分かるまで共同炊事場の仕事へ加わること」
お寅婆が麦団子の入った椀を差し出した。
「施しやない。貸しや。生き延びたら、誰かの椀を洗って返し」
少年は両手で椀を受け取った。
温かな汁をひと口飲むと、堪えていた涙が落ちた。
「……ぼく、桶なら運べる」
「それで十分や」
京鈴が答え、少年の隣へ座った。
その日、共同蔵には最初の食札が並んだ。
家ごとの札。
子どもの札。
病人の札。
そして、まだ名前を取り戻していない者のための、空の椀が描かれた札。
冬を越すために必要なのは、食料だけではなかった。
誰を数え、誰を列の中へ迎えるのか。
茶太郎たちは今、町そのものの新しい形を作り始めていた。
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食料を管理するには数や決まりが必要です。しかし、名前や所属を証明できない人を最初から数の外へ置けば、その人は生きる機会まで失ってしまいます。
今回登場した名のない少年は、のちに「ハチ」と呼ばれる子です。家も本名も思い出せませんが、働く手と、誰かの役に立ちたい気持ちを持っています。
空椀の食札は、決まりを壊さず、決まりからこぼれた人を迎えるために生まれました。




