第92話 「火を消して煮る箱と、夜明けの豆粥」
――燃やし続けず、残った熱に仕事を任せる――
炬燵、懐炉、風重ね。
三つの工夫によって、下京の冬は少しずつ変わり始めた。
だが、共同炊事場には新たな問題が起きていた。
「炭が減るの、早すぎへんか?」
甚八が燃料棚を覗き込む。
北山、東山、宇治で作り方を広めた木屑炭も、冬になると使う者が増える。暖房に炊事、湯沸かし。作る量が増えても、それ以上の速さで消費されていた。
お寅婆が豆の入った壺を叩いた。
「豆粥は腹持ちがええ。せやけど、柔らこうするまで火を食う。薪の少ない家では作れへん」
鍋の中では、豆が固い音を立てて転がっている。
茶太郎は火を見つめた。
水はすでに沸いている。それでも鍋の下では、炭が赤く燃え続けていた。
「一度熱くなった鍋を、冷まさないように包んだら……火を消しても、しばらく煮続けられないかな」
京鈴が首を傾げる。
「鍋にも……風重ね?」
「うん。鍋に着せる胴着だよ」
◆藁の中へ鍋を入れる
宗白が、壊れた長持を一つ用意した。
甚八が焦げた部分を取り除き、内側へ薄い板を張る。そこへ乾いた藁を敷き、古紙と麻布を重ねた。
中央には、土鍋が収まる丸い窪みを作る。
「火を入れる箱やないぞ」
甚八は子どもたちを見回した。
「火から下ろした鍋だけを入れる。熾火も炭も絶対に入れるな」
ゆかりは箱の取っ手に赤い紐を結んだ。
「赤い紐が出ている間は、鍋が熱い印。子どもだけでは蓋を開けないこと」
茶太郎は豆を一晩、水へ浸した。
翌朝、分福茶釜の湯を鍋へ注ぎ、豆と米を火にかける。
「ぽんぽこぽん! わしの湯、働き者やで!」
鍋がしっかり煮立ったところで、茶太郎は火から下ろした。
蓋を紐で固定し、藁の箱へ収める。上からも麻布と古紙の詰め物をかぶせ、木の蓋を閉じた。
「これで……待つ」
こたろが箱の前に座った。
「ほんまに何もせえへんの?」
「何もしないのも、料理の仕事だよ」
◆最初の豆粥
レオが時を数え、宗白が帳面へ記す。
京鈴は箱へ耳を近づけた。
「……中で、小さく鳴ってる」
しばらくすると、音は消えた。
茶太郎たちは蓋を開ける。白い湯気と、豆の甘い香りが広がった。
「できた〜!」
こたろが飛びつこうとしたが、茶丸に襟をくわえられた。
『待て。見た目だけで決めるな』
茶太郎が豆を一粒取り、指で割った。
外側は柔らかい。だが中心には、まだ硬い芯が残っていた。
汁も、炊き上がった粥ほど熱くない。
「まだ食べちゃだめだ」
お寅婆が眉を上げる。
「せっかく煮えたように見えるのにか?」
「温かいだけと、きちんと煮えたことは違うよ」
茶太郎は鍋をもう一度火へ戻した。
ぐつぐつと十分に煮立たせてから、再び箱へ入れる。今度は箱の上へ時刻を示す木札を置き、途中で勝手に開けないことにした。
二度目に取り出した豆は、中心までふっくらとほどけていた。
「火を使わへんのやなくて、火の使いどころを減らすんやな」
甚八が納得したように頷く。
「最初と最後は、きちんと火を通す。その間を箱に任せるんだ」
◆箱の中の危険
成功の翌日、別の小屋で真似をした者が、煮立つ前の鍋を箱へ入れようとした。
それを見つけた京鈴が止めた。
「その鍋……音が違う。まだ水が眠ってる」
茶太郎が駆けつけると、鍋は湯気こそ出ていたが、十分に沸いていなかった。
「ぬるいまま長く置いた料理は、見えない傷みが増えることがある」
茶太郎は箱の蓋へ、三つの札をつけた。
一つ、入れる前に必ず煮立たせる。
二つ、長く放置しすぎない。
三つ、食べる前に再び煮立たせ、匂いと味を確かめる。
ナギも水面を覗き込んだ。
「……にごり……へんだったら……たべない……」
霊の力だけに頼らず、人の目、鼻、耳、時の記録を重ねる。
それが新しい炊事場の決まりとなった。
◆夜明けの豆粥
完成した「保温煮箱」は、夜明け前から働く者たちのために使われた。
前夜に豆と米を煮立たせ、箱へ入れる。朝には必ず鍋を火へ戻し、熱々になるまで仕上げる。
味つけは味噌と少量のたまり。刻んだ九条葱と、干した大根の葉を加えた。
寒い朝、湯気の立つ豆粥が配られる。
「少ない炭で、こんなに豆が柔らこうなるんか」
「腹の底まで温まるわ」
働き手たちの声を聞き、レオは燃料帳へ印をつけた。
「……炭……いつもの……半分より、すこし多いくらい……」
「その違いを覚えておこう」
茶太郎は答えた。
こたろは豆粥を運び、京鈴は鍋の音を確かめる。カイは燃え残った炭を選り分け、次の火へ回した。
子どもたちは料理を作るだけでなく、火、水、時、数を扱う小さな台所衆へ育ち始めていた。
やがて下京では、また奇妙な噂が流れた。
「宇治の子は、火を消してから料理を煮るらしい」
だが箱の中に、術はなかった。
火から受け取った温もりを逃がさず、残った熱へ仕事を任せる。
それは、限られたものを使い尽くさず、明日へ残すための料理だった。
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火を燃やし続けず、鍋に残った熱へ仕事を任せる。今回は、限られた燃料を明日へ残す保温調理を描きました。
一方、ぬるい料理を長時間置くと、食中毒の危険があります。本話でも、十分に加熱すること、放置しすぎないこと、食べる前に再加熱することを決まりにしました。現実には、現代の保温調理器具の説明と食品衛生基準に従ってください。




