第80話 「近江屋善右衛門と、長刀についた値」
――大切なものにも、商いの値がつく――
五日後。
近江屋善右衛門が、堅田衆の呼びかけに応じて瀬田の船宿へ現れた。
四十歳ほどの痩せた商人だった。
旅塵のついた羽織をまとい、右手には算盤、左手には長刀の木札を持っている。
「この木札を蔵で見た」
善右衛門は、墨屋宗白を正面から見た。
「わしが受け取った長物と、形はよう似とる」
「では、長刀鉾町の品で間違いない?」
「まだ断言はせん。刃にある傷と銘を、もう一度確かめる必要がある」
善右衛門は盗人のようには見えなかった。
だが、宗白の表情は硬い。
「長刀はいま、どこにあります」
「湖東の石仏が多い郷にある。古い刀を見られる鍛冶へ、鑑定を頼むために送った」
「返していただきたい」
「それはできん」
宗白の拳が固くなる。
船宿の空気が張りつめた。
舟木弥兵衛が二人の間へ座る。
「まず、善右衛門殿が長刀を得た経緯を話してくれ」
善右衛門は帳面を取り出した。
「白布を目印にした一団へ、米と銭を貸しとった。都で仕事がある、祭礼の道具を運ぶと言うてな」
しかし一団は約束の日になっても戻らなかった。
代わりに、油布で包まれた長物を置いていった。
「古い武具とは聞いた。盗品とは聞いてへん」
「不自然やと思わなかったのですか」
日置雪が問う。
「思うた。せやから、すぐ売らずに鑑定へ回した」
善右衛門は宗白へ帳面を差し出した。
貸した米の量。
支払った銭。
運送賃。
蔵の預かり料。
すべてが細かく記されている。
「長刀がそちらの物なら、返す道は考える。けど、わしが払うたものまで無かったことにはできん」
「町から奪われた品です」
「わしも奪った側やない」
二人の言葉がぶつかる。
茶太郎には、どちらの苦い味も感じられた。
宗白は焼けた町と、空になった鉾を背負っている。
善右衛門は貸した米と、商いを支える家族や奉公人を背負っている。
茶太郎は持参した蜂蜜湯を二人の前へ置いた。
水飴へ少量の蜂蜜と柚子を加え、湯で溶いたものだった。
「話す前に、少し飲んで」
宗白は椀を見たまま動かない。
善右衛門も手を伸ばさなかった。
「これを飲めば、話が丸く収まると思うか?」
善右衛門が尋ねる。
「思わないよ」
茶太郎は首を振った。
「でも、疲れたまま話すと、相手の言葉が全部、攻撃みたいに聞こえるから」
弥兵衛が吹き出した。
「四つの子に言われとるぞ」
善右衛門が先に蜂蜜湯を飲んだ。
「……甘いな」
「蜂蜜は少しだけ。ほとんど水飴だよ」
宗白も、ようやく椀を手に取った。
温かい湯を飲んでも、長刀は戻らない。
銭の問題も消えない。
けれど二人の声から、わずかに尖りが取れた。
善右衛門は新しい紙を広げた。
「鑑定で長刀鉾町の品と確かめられた場合、春まで処分を待つ」
「春まで……」
「それまでに、わしが支払うた元の銭について話をつけたい。全額を一度に返せとは言わん。町組、茶商、あるいは祭礼に関わる者で負担を分ける手もある」
宗白は黙り込んだ。
下京には、焼けた家を直す銭さえ足りない。
長刀を買い戻せば、屋根や井戸の修繕が遅れる。
追放された者たちの土地や蔵を売れば、銭を作れるかもしれない。
だが、それをすれば、帰る場所を残すという約束を自ら壊すことになる。
「追放された者の土地には手をつけません」
宗白は、はっきりと言った。
「ほかの方法を探します」
善右衛門は宗白の顔をしばらく見つめた。
「分かった。なら、春まで待とう」
弥兵衛が条件を読み上げ、双方が確認する。
ただし、約束できるのは処分を待つことだけ。
戦や借財で善右衛門の商いが立ち行かなくなれば、長刀を売らざるを得ない場合もある。
未来まで縛る約束は結べなかった。
茶太郎が尋ねる。
「鑑定する鍛冶さんは、どんな人?」
「左衛門太郎助長という男の名を聞いた。古い刃を見分ける腕があるらしい。ただ、本人へ話が届いたかは分からん」
宗白は、その名を帳面へ記した。
長刀は見つかった。
けれど、見つけることと、取り戻すことは違う。
盗まれた品にも、運んだ者の恐れ、受け取った者の貸し、守ろうとする者の願いが絡みついている。
茶太郎は覚書を開いた。
——値がつくことと、価値が決まることは同じではない。
——けれど誰かが支払った重さを無視して、本当の価値を守ることもできない。
船宿を出ると、近江の湖から冷たい風が吹いてきた。
春までに、長刀を戻す道を見つけなければならない。
宗白は帳面を胸に抱き、遠い湖東を見つめた。
「空の鉾を、空のまま終わらせへん」
その言葉に答えるように、瀬田の水面へ一本の細長い光が伸びていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
盗まれた長刀であっても、知らずに受け取った商人が代価を支払い、貸しや約束を重ねていれば、ただ返せと言うだけでは解決できません。
値段が、その品の価値をすべて決めるわけではない。しかし、誰かが負った損失を無視して価値を守ることもできない。今回は、長刀を「見つける物語」から「取り戻す道を作る物語」へ進めました。
春までに、空の鉾へ長刀を戻せるのか。次の課題は、善右衛門が支払った重さと向き合うことです。




