第76話 「瀬田へさかのぼる茶船と、堅田衆の問い」
――取り戻すには、持ち主を名乗るだけでは足りない――
口切りの茶事から三日後。
森家の書状と長刀の記録を載せた茶船が、宇治を出た。
目指すのは、近江の湖、その南の出口にあたる瀬田。
宇治川から瀬田川をさかのぼる旅である。
川を下る時とは違い、船は流れに逆らわなければならない。
船頭たちは竿で川底を押し、流れの強い場所では岸から綱を引いた。
「うじまるの力で、流れを止められないの?」
こたろが尋ねる。
宇治川守護なまずのうじまるは、水面から顔を出した。
「できないべ。川を止めたら、魚も船も下流の田畑も困るべ」
ナギも船縁から水を覗く。
「……みず……けせない……でも……ゆるいところ……わかる……」
ナギが穏やかな流れを示し、船頭が進む場所を選ぶ。
霊は船を運ばない。
流れを読み、安全な道を教えるだけだ。
船を前へ進めるのは、竿を押し、綱を引く人々だった。
茶太郎も細い綱を握ろうとしたが、かん太に止められた。
「これは大人の仕事や。茶太郎は荷印の紙、なくさんよう持っとけ」
「うん!」
日が傾く頃、船は瀬田へ着いた。
船宿には、近江の湖を行き交う荷が積み上げられている。
塩、干魚、木材、麻布。
港には多くの船が並び、それぞれ異なる印の旗を掲げていた。
宇治の船頭・源三の姉婿が、ひとりの男を連れてくる。
「堅田から来た舟木弥兵衛殿や」
弥兵衛は三十代半ば。
日に焼けた顔に細い目を持ち、腰には筆と小さな算木を下げている。
堅田の商工業者をまとめる全人衆に連なる、荷の仲立ち人だった。
「宇治の茶師と下京の町組が、湖の荷を調べたいそうやな」
墨屋宗白が木札を差し出す。
「長刀鉾町から奪われた、二代目の長刀を捜しています」
弥兵衛は木札を受け取らなかった。
「それが、お前らの長刀やという証は?」
宗白の眉が動く。
「町の者が知っとる。長く鉾に載せてきた品や」
「湖へ来れば、誰もが自分を持ち主やと言う。借金の形に取られた荷も、戦で置き去りになった荷も、売ったあとで惜しくなった荷もある」
「我らを疑うのか」
「疑う。荷を預かる者は、どちらの話も疑わなあかん」
空気が張りつめる。
茶太郎は宗白の袖を引いた。
「帳面を見てもらおう」
宗白はしばらく黙ったあと、持参した記録を机へ並べた。
長刀の寸法と形。
鉾町から運び出された日時。
京鈴が聞いた音。
佐吉の証言。
白布の切れ端と、近江式の結び目。
甲賀衆が確認した商人への受け渡し。
「都合の悪いことも書いてあるな」
弥兵衛が言った。
「佐吉が長刀と知りながら担いだことも、追跡を二度諦めたことも」
「隠したら、記録やなくなる」
宗白が答える。
「我らの話だけを信じてほしいとは言わん。相手の事情も調べてくれ」
弥兵衛はようやく木札と白布を手に取った。
「……なら、堅田の荷帳を調べよう」
日置雪が尋ねる。
「湖の商人全員の帳面を見られるの?」
「全員は無理や。まず荷印から仲買を絞る。次に、どの船へ載せたかを確かめる」
弥兵衛は白布の墨印を写し、瀬田の荷帳を開いた。
何冊もの帳面をめくった末、ある頁で指を止める。
「白布の荷印。六日前、長物一包みを船へ載せた記録がある」
宗白が身を乗り出す。
「行き先は?」
「書かれてへん」
荷帳の一部が、刃物で薄く削られていた。
品名と行き先だけが消され、受け取った銭の額が残っている。
灰童子のカイがいれば、紙に残る煤や灰から何かを読めたかもしれない。
だがカイは下京の竈を守っている。
亜空間の小戸も、訪れたことのない瀬田にはまだ開かない。
今ある手だけで、確かめなければならなかった。
弥兵衛は紙を斜めから光へ透かした。
「墨は消えたが、筆圧が残っとる」
茶太郎も覗き込む。
削られた紙には、わずかな窪みがあった。
「読める?」
「すぐには無理や。堅田には、帳面の写しを取っとる船問屋がある。そっちと照らし合わせる」
「堅田へ連れていってください」
宗白が頼む。
しかし弥兵衛は首を横に振った。
「まず書状を持ち帰り、合議にかける。堅田は、わし一人の考えでは動かん」
茶太郎は少し驚いた。
「偉い人が決めるんじゃないの?」
「湖では、一人の間違いが何艘もの船を沈める」
弥兵衛は森家の書状を懐へ納めた。
「殿原衆も、全人衆も、船頭も話し合う。お前らを湖の内側へ入れるかは、それからや」
帰り際、茶太郎は柚子水飴を絡めた米粉団子を一つ、弥兵衛へ差し出した。
「これは賄賂か?」
「違うよ。今日、話を聞いてくれたお礼」
「同じに聞こえるがな」
弥兵衛は警戒しながら団子を口へ運んだ。
しばらく無言で噛み、もう一つある包みへ目を向ける。
「……これは?」
「堅田のみんなで分ける分」
弥兵衛は小さく笑った。
「一個では、合議の人数に足らんな」
「じゃあ、次はもっと作る」
瀬田の水面に、夕日が細長く伸びていた。
長刀の行き先は、まだ分からない。
だが削られた帳面の向こうに、湖を渡った確かな痕跡がある。
茶太郎は覚書に記した。
——持ち主を名乗るだけでは、閉じた道は開かない。
——自分に不利な事実まで差し出して初めて、相手は一緒に確かめてくれる。
弥兵衛を乗せた船が、堅田へ向けて湖へ漕ぎ出す。
その船には、森家の書状と長刀の記録、そして人数には少し足りない米粉団子が載っていた。




