第73話 「崩れた峠と、白布の受け渡し」
――届かなかった手も、未来へ印を残せる――
夜が明ける前、雨は止んだ。
山の端が白み始めると、茶太郎たちは怪我人を麓の家へ運んだ。
男の名は佐吉。
山科の外れで荷運びをしていたが、刀を持つ者たちに脅され、長刀の運搬を手伝わされたという。
弥七が傷の具合を確かめる。
「熱はまだある。動かしたら傷が開く」
佐吉は苦しそうに息をしながら、宗白へ手を伸ばした。
「長刀の……包み……結び目が違う」
「結び目?」
「鉾町から運び出した時は、三つ巻きの男結びやった。峠の手前で……白い布の連中が、近江の結びに替えた」
佐吉は震える指で、縄の形を地面に描いた。
甚八が、その形を帳面へ写す。
「荷を受け取る者が変わった証になるな」
宗白は佐吉へ尋ねた。
「行き先は聞いてへんか」
「石の仏が……ようけ立つ方やと……誰かが言うとった。それ以上は……」
近江のどこか。
石仏の多い土地。
それだけでは、場所を一つに絞れない。
空が明るくなると、一行は再び峠へ向かった。
しかし昨夜、太陰が示した斜面は大きく崩れていた。
土砂と倒木が道を塞ぎ、人一人が通れる隙間もない。
ナギが泥水の動きを読む。
「……まだ……うごいてる……つち……おちてくる……」
茶丸も地面へ前足を置いた。
『地の震えが残っている。近づけば、再び崩れる』
「迂回路は?」
宗白が弥七へ問う。
「北へ半日、そこから峠を越えてさらに一日。追いつくのは難しい」
宗白は土砂の向こうを睨んだ。
「それでも行く」
甚八が腕を掴む。
「一人で何ができる。相手は武装しとるんやぞ」
「長刀は、町の誇りや」
「宗白が死んだら、下京の帳面は誰がつける!」
二人の声が山に響いた。
茶太郎は何も言えなかった。
宗白の痛みも、甚八の恐れも、どちらも間違っていない。
そのとき、上空を旋回していた蒼から念話が届く。
『土砂の向こうに人影。白い布をつけた者が四人。長い包みを荷車へ移している』
「見えるの?」
『ここから東へ一里ほど。だが、森へ入れば見失う』
シオが翼を広げた。
「私が追うよ。空なら崩れた道も越えられる」
「場所を知らせるだけにして」
茶太郎は言った。
「近づきすぎたら、シオまで捕まるかもしれない」
「分かった。目印を覚えてくる」
シオは東の空へ飛び去った。
一行には、長刀が運ばれていく方向が分かっている。
それでも手を伸ばすことはできない。
空を飛べない人間には、崩れた地面を越えられない。
亜空間の戸も、行ったことのない場所には開けない。
霊の力があっても、距離も、土砂の重さも、武装した相手の危険も消えはしなかった。
宗白は長いあいだ、崩れた道の前に立っていた。
やがて懐から、長刀の特徴を書いた木札を取り出す。
土へ差そうとして——手を止めた。
そして木札を再び懐へ戻した。
「墓標にするには、まだ早い」
宗白は甚八へ向き直る。
「佐吉の証言、結び目、白布の人数、荷車の形。全部、帳面に残してくれ」
「追うのをやめるんか」
「今日ここで死ぬことと、探すのをやめることは違う」
茶太郎は宗白を見上げた。
宗白は崩れた峠へ一礼した。
神仏への祈りでも、敗北の礼でもない。
取り戻せなかった長刀へ、自分たちが確かにここまで来たと伝えるような、静かな所作だった。
甚八も黙って頭を下げる。
弥七、雪、茶太郎も、それに続いた。
風が土砂の上を渡り、近江の方角へ吹いていく。
誰も言葉を発しない。
それでも、その場にいた全員が同じ思いを抱いていた。
——忘れない。
——見失っても、探した証を残す。
——いつか誰かが見つけた時、帰すべき場所を伝える。
昼頃、シオが戻ってきた。
「荷車は湖の南へ向かったよ。途中の石仏のそばで、さらに別の男と話してた。腰に鍛冶道具を下げた人だった」
「鍛冶職人か」
甚八が目を細める。
「奪った連中の仲間とは限らん。買い戻そうとしとる者かもしれへんな」
宗白は新しい紙へ、シオが見た道と石仏の形を描かせた。
今すぐ長刀には届かない。
だが証言と記録は、次に探す者へ渡せる。
茶太郎は覚書へ記した。
——届かなかった手も、空を掴んだだけでは終わらない。
——どこまで進み、何を見たかを残せば、その先から別の誰かが歩ける。
一行は、佐吉を連れて下京へ戻ることにした。
崩れた峠を背に歩き出すと、宗白の懐で木札が小さく鳴った。
長刀のない鉾町と、近江へ消えた一振り。
二つの間には、まだ遠い道が横たわっている。
それでも道は、途切れてはいなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
探し物へ届かなかったとしても、どこまで進み、何を見つけたかを残せば、次の誰かがその先から歩けます。今回は「届かなかった手」を、失敗だけで終わらせない物語でした。
白布、結び目、石仏、鍛冶道具を持つ男。長刀へ続く手がかりは、少しずつ具体的になっています。まず茶太郎たちは、傷ついた佐吉を連れて下京へ戻ります。




