第72話 「山科越えの油跡と、追跡者を隠す月」
――急ぐ心ほど、足元の痕跡を見失う――
翌朝、長刀の行方を確かめる一行が下京を出た。
山中弥七、日置雪、墨屋宗白、釘打ちの甚八。
茶太郎も、茶丸とともに荷馬車へ乗っている。
空には蒼。
遠くの道を読むため、アオバトのシオも加わった。
「長い包みを運んだ者は、山科を越え、近江へ向かったらしい」
弥七が道端の土を調べる。
「六人前後。荷は重い。急いではいるが、馬を使っていない」
甚八は、石の表面についた黒い染みを指で拭った。
「油や。刃が錆びんよう、包みに染み込ませた油が垂れたんやろ」
宗白が息を呑む。
「ならば、長刀で間違いない」
「まだ決めつけるな」
雪が周囲を見回した。
「同じ油は、槍や鍬にも使う。追う者が見たい答えに合わせて、痕跡を読むのは危険よ」
山道へ入ると、前夜の雨で土が緩んでいた。
見返り兎のミカエが、少し先を進んでは振り返る。
「べ、別に茶太郎が転ばないか心配しているわけじゃないから。道を確かめてるだけ」
「ありがとう、ミカエ」
「……簡単にお礼を言わないでよ」
耳を赤くしながら、ミカエは再び駆けていった。
昼過ぎ、一行は二つに分かれた足跡を見つけた。
一方は、荷の重さで深く沈んでいる。
もう一方には、片足を引きずった跡があった。
「東と北東……別れたな」
弥七が呟く。
宗白は深い足跡を指す。
「長刀はこっちや。急ごう」
だが、茶太郎は引きずられた足跡のそばに、赤黒い染みを見つけた。
「血……?」
希太が低く鳴く。
「にゃ……(痛い)」
宗白の顔に迷いが浮かぶ。
長刀を追うなら、重い荷の跡。
傷ついた者を探すなら、もう一方。
ためらっている間にも、長刀は遠ざかる。
「蒼、荷の方を見てきて」
茶太郎が頼む。
「シオは血の跡をお願い。ぼくたちは、ここで待つ」
蒼は東へ、シオは北東へ飛んだ。
人間の足で二つの道を同時に追うことはできない。
だが偵察なら、先の状況を知ることができる。
しばらくすると、蒼の念話が届いた。
『荷の一団は峠を越えた。だが道の先に武装した見張りがいる。こちらの姿を警戒している』
続いてシオから声が届く。
『怪我人が一人、倒れてる。崩れた炭焼き小屋のそば。息はあるよ』
宗白は目を閉じた。
「……怪我人へ行く」
誰も反対しなかった。
炭焼き小屋では、若い男が脇腹を押さえて倒れていた。
着物には、長刀を包んでいたものと似た油の匂いが染みついている。
弥七が傷を確かめる。
「刃傷や。深いが、内まで届いてはいない。雪、湯を。茶太郎、薬草の包みを出せるか」
茶太郎は亜空間収納から薬草と清潔な布を取り出した。
水は生み出せない。
雪が近くの家を訪ね、井戸水を分けてもらう。
煮沸した湯で傷を洗い、弥七が止血する。
男は薄く目を開いた。
「……長刀……運ばされた……」
宗白が身を乗り出す。
「どこへ持っていった」
「知らん……峠の先で……別の連中に渡すと……」
「誰に渡す」
「顔を……見ていない。笠に、白い布……」
男は再び意識を失った。
日が傾き、山の影が道を覆い始める。
武装した見張りがいる峠へ、暗闇の中で踏み込むのは危険だった。
「夜を待てば、隠れて進める」
雪が言った。
そのとき、木々の間から細い月光が差し込んだ。
光は銀色の衣をまとった女の姿へ変わる。
音もなく現れた女は、雪と弥七を静かに見つめた。
「隠れることと、見えなくなることは同じではありません」
橋姫の念話が、茶太郎へ届く。
『十二天将の一柱——太陰です』
太陰は月のように白い扇を閉じた。
「夜は追跡者を隠します。しかし同時に、崩れた道も、待ち伏せも、戻るための印も隠します」
弥七が頭を下げる。
「今夜は進むべきでない、と?」
「決めるのは人です。私は、隠れている危険を示すだけ」
太陰が扇で道を指す。
淡い月光の下に、細い亀裂がいくつも浮かんだ。
峠の斜面が、雨で崩れ始めている。
無理に進めば、一行も巻き込まれていただろう。
宗白は拳を握り、やがて力を抜いた。
「今夜は怪我人を麓へ運ぶ。峠越えは明朝や」
茶太郎は遠ざかる長刀を思った。
また、追いつけなかった。
けれど、焦って進めば、守るべき人まで失っていたかもしれない。
太陰は茶太郎の隣へしゃがむ。
「暗闇は、進むためだけにあるのではありません。立ち止まり、目を慣らすためにもあるのです」
茶太郎が顔を上げたとき、太陰の姿は月影へ溶けていた。
その夜、一行は炭焼き小屋に灯りを置いた。
長刀へ続く道は、再び闇の中へ隠れた。
だが、消えたのではない。
夜が明ければ、また探し始められる。
茶太郎は眠る怪我人のそばで覚書を開いた。
——深い暗闇の中では、走る前に目を慣らす。
——そこで初めて、自分だけが見つけられる光もある。
峠の向こうでは、長い包みを担いだ影が、近江の夜へ静かに消えていった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
急ぐほど、目の前の痕跡だけを追ってしまいます。しかし暗闇には、昼間には見えなかった危険を浮かび上がらせる働きもあります。
太陰が示したのは、進む道ではなく、今は進んではならない道でした。長刀はまた遠ざかりましたが、怪我人と新たな証言が残されています。次回は、崩れた峠で交わされる白布の手がかりを追います。




