第71話 「三本足りない鎹と、墨のついた貸し帳」
――善意にも、引き受けるべき重さがある――
荷車が下京へ着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
共同炊事場の前では、お寅婆や志乃、灰童子のカイが待っていた。
「遅かったな。道で昼寝でもしとったんか」
お寅婆が荷を確かめ、すぐに眉をひそめる。
「味噌が減っとる。縄も短い。鎹は……三本足らんな」
茶太郎は、道で儀助たちに出会ったことを話した。
畑が踏み荒らされ、水路が壊れていたこと。
味噌汁を作り、縄と木杭を使ったこと。
鎹を三本、水路の板へ打ち込んだこと。
「収穫できたら、下京へ返してくれるって約束したよ」
「そうか」
墨屋宗白の声が、背後から聞こえた。
宗白は荷車の前へ進み、帳面を開く。
「それで、誰の判断で使うた?」
茶太郎は口を閉じた。
「……ぼくです」
「この鎹が、何に使われる予定やったか知っとるか」
宗白が指した先には、建てかけの仮小屋がある。
昨夜救い出された四十三人が、冬を越すための小屋だった。
屋根を支える梁には、まだ三か所、金具が入っていない。
「道で困っとる者を助けた。それ自体を責める気はない」
宗白は静かに言った。
「せやけど、一つを救うために使うた物は、別の場所から消える。善意やからといって、その重さまで消えるわけやない」
茶太郎は、空いている梁の継ぎ目を見つめた。
「……ごめんなさい」
「謝る相手は、わしやない」
宗白の視線が、仮小屋の前に集まる人々へ向く。
茶太郎は皆の前へ立った。
道中で三本の鎹を使ったため、屋根の完成が遅れるかもしれないと、隠さず説明する。
怒鳴る者はいなかった。
だが、冷たい夜を思い出したのか、幼子を抱く母親が不安そうに屋根を見上げた。
その表情が、茶太郎の胸に刺さる。
言葉にできない痛みでも、料理に込めれば届くことがある。
けれど、料理だけでは支えられないものもある。
「甚八さん……鎹がなくても、屋根を支えられる?」
釘打ちの甚八は梁を調べた。
「できんことはない。木を刻んで噛み合わせ、楔で締める。ただし手間がかかるし、雑にやれば外れる」
「ぼくも手伝う」
「四つの子に鑿は持たせられへん」
甚八は即答した。
「せやけど、木屑を掃くことと、楔の数を数えることはできる」
作業が始まった。
甚八が焼け残った梁から傷みの少ない部分を選ぶ。
大工が継ぎ手を刻み、木槌で楔を打つ。
京鈴は柱へ耳を当て、木のきしみを聞いた。
「そこ、音が高い。まだ浮いとる」
甚八が楔を打ち直す。
カイは柱の表面を灰の手でなぞり、内側まで炭化した材に黒い印を残した。
茶太郎は楔を数え、使った数を宗白へ伝え続ける。
夜になる頃、三本の鎹がなくても、屋根は形になった。
宗白が自ら梁を押し、甚八が揺れを確かめる。
「今夜は持つ。明日、もう一度締まりを見よう」
皆が仮小屋へ入っていく。
先ほど不安そうにしていた母親が、茶太郎の前で足を止めた。
「村の人も、寒かったんやろ」
「……うん」
「ほな、助けたことは間違いやない。ただ、次はうちらにも先に話してな」
茶太郎は深く頭を下げた。
「はい」
共同炊事場へ戻ると、宗白が新しい帳面を差し出した。
表紙には墨で「貸し帳」と書かれている。
「儀助という者の村。味噌、縄、杭、鎹三本。返す品と時期は、収穫を見て決める」
茶太郎は首を傾げた。
「本当に返してもらうの?」
「返すとは、同じ物を戻すことだけやない。野菜でも、道の警護でも、次に困った村を助けることでもええ」
お寅婆が鼻を鳴らす。
「借りがあるから、人はまた会えるんや。きれいに終わらせすぎたら、縁まで切れてまう」
宗白は筆を茶太郎へ渡した。
「助けた記録だけやなく、何を使い、誰がその重さを引き受けたかも残せ。それが人の上に立つ者の務めや」
茶太郎は、まだ上手に書けない手で儀助の名を記した。
曲がった文字の横に、宗白が正しい字を添える。
そのとき、秘密基地につながる小戸から鈴が鳴った。
宇治に残るゆかりの声が届く。
『茶太郎! 近江から来た商人さんが、長い包みを担いだ一団を見たって!』
宗白の筆が止まる。
『山科を越えて、湖の南へ向かったらしいよ』
長刀の行方を示す、新しい手がかりだった。
けれど宗白は、すぐに人を走らせようとはしなかった。
まず完成した屋根を見上げ、それから貸し帳を閉じる。
「明朝、道と人数を確かめる。追うかどうかは、そのあと決める」
焦りだけで人を動かせば、新しい危険を生む。
茶太郎は今日、その重さを知った。
善意にも、決断にも、使った物にも、すべて重さがある。
だからこそ、一つずつ数え、記し、次の者へ渡していかなければならないのだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、善意で使った物にも、その行方を説明する責任があるというお話でした。助けた事実だけでなく、何を使い、誰が判断し、どのように返してもらうかまで記録する。宗白の貸し帳は、縁を縛るものではなく、次の出会いへつなげる帳面です。
そこへ届いた、近江へ向かった長刀の情報。今度こそ追いつけるのか。次回、茶太郎たちは山科越えの道へ入ります。




