表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第二章 ~四歳の茶太郎、京の大火を知る~
PR
69/308

第66話 「町境の犬神・洛と、開かれない新道」

 ――境を消さずに、門を作る――


 犬神・らくは、新しく開かれた道の中央に立っていた。


 小さな豆しばの姿。

 煤で身体の右半分が黒くなり、首には焼けた町境の札を下げている。


「ここから先は、わしの町ではない」


 低い唸り声が響く。


「境を持たぬ者は通さぬ」


 人間が足を踏み入れることはできた。

 しかし荷を引く馬は耳を伏せ、牛は前脚を踏ん張って動かない。

 避難者に付き添う小さな霊たちは、見えない壁に触れたように道を避ける。


 洛が霊力で道を塞いでいるというより、その警戒心が動物や霊へ伝わっていた。


「この道を通れないと、井戸から水を運べへん」


 町人が訴える。


「旧い道を使え」


「焼けた家が倒れて、通れんのや!」


「なら、直せ」


「直す家も人手も残ってへん!」


 洛は耳を伏せたが、道を譲らなかった。


 宗白そうはくが帳面を開く。


「この新道は、焼失した三つの町内を横切っています。残った住民の合意で開きました」


 勾陳こうちんが鉄杭を地面へ打つ。

 土の奥から、古い町境石の位置が淡く浮かび上がった。

 新道は確かに、かつての境を斜めに横切っている。


「古い境を消して道を作ったのか」


「消したのではありません」


 宗白が答える。


「境を守れば、水も材木も届かない。今いる者を生かすためです」


 洛が牙を見せる。


「今いる者だけが、町の者か」


 その問いに、宗白は答えなかった。


 茶丸が洛の前へ進んだ。

 白斑が淡く光り、獣王の気配が道を満たす。


『退け』


「獣王であろうと、町の外の獣には従わぬ」


『守る家は、もうない』


「家が焼けたからこそ、境を残す!」


 洛の身体が大きく見えた。

 背後には、火事以前の町並みが影のように浮かんでいる。


 店の軒。

 格子戸。

 井戸端で話す女たち。

 路地を走る子ども。


「境を消せば、戻ってきた者が自分の町を見つけられぬ」


 洛は震える声で言った。


「わしは、ここで待たねばならん」


 そのとき、京鈴きょうすずが新道へ歩み出た。


「危ないよ」


 茶太郎が止めようとしたが、京鈴は首を振る。


 片方だけの赤い草履が、古い境石を越える。


 洛は唸らなかった。

 鼻を近づけ、京鈴の煤けた着物を嗅ぐ。

 それから焼けた鈴へ、そっと鼻先を触れた。


「知ってるの?」


 京鈴が尋ねる。

 洛は一度だけ尻尾を振った。


「お前の家の味噌と、母親の手の匂いを覚えておる」


 京鈴の顔が歪む。


「うち……名前、違うもん」


 洛は何も問い返さなかった。

 ただ京鈴の赤い草履を舐め、古い町の側へ向き直る。

 その所作は、名前を変えても、この子が町の子であると認めていた。


 京鈴は洛の首へ腕を回した。

 声を上げず、黒くなった毛へ顔を埋める。


 茶丸は二人を見つめていた。


 やがて洛へ背を向け、新道の入口へ座る。

 道を奪う姿勢ではない。

 外から来る危険へ顔を向け、道を通る者へ背中を預ける座り方だった。


 洛は茶丸の所作を見つめる。


『境を守るとは、すべてを拒むことではない』


 茶丸は振り返らない。


『帰る者が通れるよう、入口を守ることだ』


 しばらくして、洛も茶丸の隣へ座った。


 二匹は同じ方角を向き、外から吹く風の匂いを嗅いだ。


 町人たちは古い境石を掘り起こさず、その位置へ低い標を置いた。

 新道が境を横切る場所には、二本の柱を立てる。

 門扉はつけない。

 古い町名と、新しい道の行き先を両方記した。


「境を消さずに、通れる場所を作るんだね」


 茶太郎が言う。


 勾陳が頷く。


「壁にする境と、出入りを整える門は違う」


 洛は新しい門の番を引き受けた。

 ただし、昼も夜も同じ場所へ縛られる番犬ではない。


 新道を巡回し、迷った者や帰ってきた旧住民を町へ導く《巡り犬》となった。

 牛馬は少しずつ新道を通り始め、井戸の水と材木が焼け跡へ運ばれた。


 カイは門柱の根元へ灰を敷き、帰れない者の名が現れれば宗白へ知らせる。

 宗白も《借用物控え》に、旧町名を消さず記すことを決めた。


 茶太郎は《縁の料理覚書》へ、境石と開いた門を描いた。


『守るための境が、帰る道を塞ぐこともある。境を消さず、通れる門を作る』


 夕暮れ。


 洛が突然、新道の東側へ鼻を向けた。


「この匂いを知っておる」


 油、鉄、古い竹。


 長刀を包んだ荷が、騒乱の夜に残した匂いだった。


 洛は焼け道を進み、東の外れにある門跡で止まる。


「ここから先は、わしの町ではない。ゆえに以前のわしは追わなかった」


 弥七が地面へ膝をつく。


 薄く残った古い足跡は、山科から近江へ続く道を向いている。


 ユキが遠くの山影を見つめた。


「今から追えば、まだ手がかりは拾えるかもしれへん」


 その瞬間——

 背後の焼け跡から、木材が連続して裂ける音が響いた。


 京鈴が振り返り、顔色を変える。


「家が……いっぱい泣いてる」


 長刀を追う道と、崩れ始めた町。

 二つの道が、茶太郎たちの前で分かれた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


境をなくせば、誰でも通れるとは限りません。守る範囲が分からなくなれば、かえって不安や争いが生まれることもあります。洛が選んだのは、境を消すのではなく、確かめて通れる門を作ることでした。


その鼻は、失われた長刀の匂いを東へ追います。しかし同じとき、背後の町では家々が崩れ始めました。次回、茶太郎たちは二つの道から一つを選びます。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
面白いと思っていただけたら、ぜひブックマークや評価(★)をお願いします!
『茶太郎がゆく』
style=
目次からブックマークをお願いします
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ