第65話 「灰童子カイと、消してはならない名前」
――焼け跡を片づけても、記憶まで捨てない――
白い灰の中から、幼い童子が立ち上がった。
見た目は五歳ほど。
白灰色の髪に、炭のように黒い手足。
顔だけは、灰をかぶっていないように白く澄んでいる。
「みんな、いなくなったんじゃない」
童子は床へ指を走らせた。
「お前たちが、忘れたんだ」
灰の上に、次々と名前が浮かぶ。
父、母、祖母、三人の子ども。
宗白は帳面を開いた。
「この蔵の持ち主は堺へ逃れたと記録されている。死者の記録はない」
「帳面にないから、生きてるの?」
童子が首を傾げる。
「帳面にないから、死んでないの?」
宗白の指先が止まった。
天后が灰の名を見つめる。
「この子は、記録から落ちた思いを集めているようです」
「なら、全部帳面へ書けばいい」
茶太郎が言う。
だが宗白は首を振った。
「霊が灰へ書いたというだけで、死者と決めることはできません。生きて堺へ逃れた者を死者にすれば、家も財も奪われかねない」
童子の顔が歪む。
「また消すの?」
「消すのではない。確かめる」
宗白は灰の名を別紙へ写した。
その上に《未確認》と記す。
近所の者へ聞き、寺の過去帳や町の古い控えと照らし合わせることになった。
灰に浮かんだ名を信じ切るのでも、初めから否定するのでもない。
分からないものを、分からないまま残すためだった。
蔵の隅から、子どもが字を練習した板が見つかった。
そこには灰へ現れたものと同じ名が二つ書かれている。
隣家の老婆も、その一家が騒乱の日まで蔵にいたと証言した。
しかし、その後どこへ向かったかは分からない。
「ほら、いたでしょう」
童子は笑った。
「いたことまで消されなくて済んだね」
茶太郎が言うと、童子は笑顔を消した。
「でも、新しい家が建ったら、また忘れる」
その日の午後、復興中の仮小屋で騒ぎが起きた。
新しく立てた柱が、一夜で黒く汚されている。
共同竈では、炊事の途中に火が消えた。
さらに子どもたちが、灰の足跡を追って焼け跡へ入りかけていた。
「灰童子の仕業や!」
「復興を邪魔しとる!」
町人たちは箒と水桶を持って童子を追った。
童子は灰となって逃げ、別の柱へ黒い手形を残す。
「新しくするな!」
「元へ戻せ!」
「忘れるな!」
怒った町人が水を浴びせようとしたとき、茶太郎が間へ入った。
「待って!」
「そいつが竈の火を消したんやぞ!」
騰蛇が竈を調べる。
「灰をかぶせて、燃えている炭を塞いでいる。でも、この火は薪が竈からはみ出していた。火の粉が床へ落ちるところだった」
灰童子は危険な火だけを消していた。
次に、黒い手形のついた柱を甚八が槌で叩く。
鈍く、空ろな音がした。
表面は新しく削られているが、内部は火で傷んでいる。
京鈴が耳を寄せる。
「中の木、割れてる」
柱を外すと、芯まで黒く焼け、深い亀裂が走っていた。
灰童子が柱を壊したのではない。
壊れかけた柱を、灰で示していたのだ。
「じゃあ、どうして子どもを焼け跡へ連れていったの?」
茶太郎が尋ねる。
童子は俯いた。
「あそこに、名前のない人がいるから」
「危ない場所へ連れていったらだめだよ」
「でも、大人は来てくれない」
「それでもだめ。伝える方法を一緒に考えよう」
茶太郎は童子と同じ高さまでしゃがんだ。
「元に戻してほしいの?」
童子は首を振る。
「焼ける前には戻らない。家も、人も、声も……戻らない」
黒い指が震える。
「ただ、忘れないでほしい」
橋姫が静かに目を伏せた。
「忘れられない人や時間は、無理に心から消さなくてよいのです。それも、今を生きる者を形作る縁なのですから」
茶太郎は童子へ手を差し出した。
「君の名前は、カイ」
「カイ……?」
「灰のカイ。それから、帰る、改めるのカイ。元へ戻れなくても、次の形へ変わっていけるように」
童子の白灰色の髪が、ふわりと揺れた。
「ぼく……消されない?」
「消さない。でも、危ないことをしたら止めるよ」
「……うん」
カイは共同炊事場の灰置き場を自分の居場所に選んだ。
ただし、どの灰でも同じように使えるわけではない。
清潔な薪の灰。
漆や油のついた家材が混じった灰。
釘や瓦を含む焼け跡の灰。
太常と宇治土公が分け、用途を札へ記す。
カイの役目は、危険な灰を勝手に畑や洗い物へ使わせないこと。
そして、焼け跡から名前が現れたら、宗白へ知らせることになった。
茶太郎は《縁の料理覚書》へ、灰に残る手形を描いた。
『片づけることと、無かったことにするのは違う。名前は確かめ、分からなくても消さずに残す』
その夜、カイは新しい道の入口へ灰で文字を書いた。
『犬が通さない』
直後、暗い路地から低い唸り声が聞こえた。
煤で身体の半分を黒くした豆しばが、新道の中央に立っている。
首には、焼けた町境の札。
「ここから先は、洛中でも、この町でもない」
犬神・洛は牙を見せた。
「境を持たぬ者は、一歩も通さぬ」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
焼け跡を片づけることは、そこに暮らしていた人々の存在まで消すことではありません。カイが守るのは灰そのものではなく、灰の中へ残された名前と、確かめられていない記憶です。
ただし、作中でも触れたように、灰は由来によって扱いが異なります。現実の灰を畑や洗浄へ用いる場合は、安全性を十分に確認してください。
次回は、焼けた町境を守り続ける犬神・洛が登場します。




