第64話 「お寅婆の貸し椀と、帰れない者の蔵」
――優しさにも、受け取れる形がある――
お寅婆の露店には、値札がなかった。
塩、味噌、干し大根、煮干し。
焼け残った品を少しずつ集め、籠や割れた甕に分けている。
「腹が減っとる者は座り」
お寅婆は、長刀の話を聞きに来た茶太郎たちへ椀を並べた。
「先に話を聞きたい」
弥七が言う。
「空腹の忍びは、聞きたい答えだけ拾う。汁を飲んでからにし」
「俺が忍びやと、誰が言うた」
「薬売りが、歩くたびに屋根と逃げ道を確かめるかいな」
弥七は黙って椀を受け取った。
志乃が宇治から持ってきた味噌を溶き、お寅婆が干し大根と煮干しを加える。
具は少ない。
それでも煮干しを細かく砕き、大根を薄く刻むことで、どの椀にも少しずつ具が入った。
「同じ量に分けるんですね」
太常が感心する。
「同じやない。歯のない年寄りには柔らかいとこ。働く若い衆には大根の端。子どもには汁を少し薄める」
お寅婆は鼻を鳴らした。
「同じ鍋でも、食べる者まで同じやないからな」
炊き出しが始まったが、列へ並ばない者も多かった。
元は店を持っていた商人。
職人の妻。
町内で顔の知られた老人。
「施しは受けられへん」
「乞食やない」
空腹でも、椀へ手を伸ばさない。
お寅婆は彼らの前へ椀を置いた。
「施しやない。貸しや」
「返す銭がない」
「銭で返せとは言うてへん」
お寅婆は片方だけ残った眉を上げた。
「生き延びたら、次の腹減らしへ返し。水一杯でも、薪一本でもええ」
老人が迷いながら椀を取る。
「いつまでに返せばええ」
「死ぬまでや。急がんでええ」
一人が受け取ると、列の外にいた者たちも少しずつ椀へ手を伸ばした。
京鈴も、その様子を見ていた。
「うちも、借りるだけでええ?」
「返せるもんを持っとるか?」
京鈴は焼けた家を指さす。
「崩れる前の音、聞ける」
「ほな十分や。危ない木が鳴いたら教えて」
京鈴は自分から椀を受け取った。
志乃はお寅婆の横で、配った数を木札へ刻む。
「貸しにすると、あとで取り立てる人が出ませんか?」
「せやから、返す先を人やなく、次の困った者にするんや」
お寅婆は答えた。
「うちへ返させたら商い。誰かへ返させたら縁や」
茶太郎は《縁の料理覚書》へ、手から手へ渡る椀を描いた。
『食べ物を渡すだけでは足りない。受け取る人の誇りを守れる形にする』
食事が終わると、お寅婆は長刀の話を始めた。
「騒乱の翌朝、長い荷を担いだ六人組が来た」
油布で包まれた荷は、竹二本へ固定されていた。
男たちは水と乾いた藁を求めた。
荷の端が布を破り、細長い刃が一瞬だけ見えたという。
「甚八は?」
「おらんかった。あの子は手前の焼け道で捨てられたんやろ」
六人のうち二人は京の言葉ではなかった。
近江方面の道を尋ね、東へ向かった。
「どこまで追える?」
ユキが尋ねる。
「商人仲間へ聞けば、山科まではたどれるかもしれん。その先は銭と時間が要る」
宗白が首を振った。
「今、長刀の捜索へ人と銭は割けません」
「町の宝やろ」
お寅婆が睨む。
「宝です。ですが、屋根板も井戸縄も足りない」
宗白は新しい帳面を開いた。
そこには、追放された法華宗徒の家と蔵が記されている。
「人の戻る見込みがない蔵を開けます。中の材木や道具を復興へ使う」
周囲がざわついた。
「持ち主に断らんと使うんか」
「今いる住民を、冬までに住まわせるためです」
天后の表情が曇る。
「戻れぬ者の物を、いない者として分けるのですね」
「空の蔵を守って、生きた者を凍えさせるわけにはいきません」
宗白の判断は厳しい。
しかし、間違いだとも言い切れなかった。
お寅婆は腕を組む。
「使うなら、借りたことを残し。誰の蔵から、何を出したか。一つも消したらあかん」
「戻る者がいなくても?」
「戻らんことを、お前が決めるな」
宗白の指先が、墨でさらに黒くなる。
長い沈黙のあと、宗白は帳面の新しい頁を開いた。
『借用物控え』
そう表題を書いた。
最初に開けることになったのは、焼け跡の端に残る小さな蔵だった。
宗白の帳面では、持ち主一家は全員都落ち。
現在は無人と記されている。
扉を開くと、中には材木も道具もほとんど残っていなかった。
代わりに、床一面へ白い灰が積もっている。
茶太郎が一歩入る。
灰の表面に、小さな指が文字を書くような筋が走った。
一つの家名。
続いて、父、母、子どもたちの名。
「この家……無人じゃない」
茶太郎が呟く。
灰の中央から、五歳ほどの小さな童子が顔を出した。
白灰色の髪。
炭のように黒い手足。
顔だけが、不自然なほどきれいだった。
「みんな、いなくなったんじゃない」
灰童子は寂しそうに笑う。
「お前たちが、忘れたんだ」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
無償で与えることだけが優しさではありません。「貸し」とすることで、受け取る側の誇りや、いつか誰かへ返したいという気持ちを守れる場合もあります。お寅婆の貸し椀には、そんな考えを込めました。
次に開かれたのは、持ち主が帰れないままの蔵です。そこに残っていた灰は、記録からこぼれ落ちた名前を覚えていました。




