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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第二章 ~四歳の茶太郎、京の大火を知る~
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第62話 「片方の赤い草履と、京鈴の聞いた音」

 ――名前を隠した少女が覚えていたもの――


「京鈴。何を見た?」


 墨屋宗白すみや・そうはくが尋ねると、少女は激しく首を振った。


「うち、京鈴やない!」


 片方だけの赤い草履が、焼けた道を蹴る。

 少女は倒れかけた塀の隙間へ入り、そのまま姿を消した。


「追います」


 ユキが動こうとしたが、茶太郎が袖を掴んだ。


「待って。怖がってる」


「せやけど、長刀のことを知ってるかもしれへん」


「今聞いたら、もっと話せなくなるよ」


 宗白は少女が消えた路地を見つめ、帳面を閉じた。


「火事の前は、京鈴と呼ばれていました。法華宗徒の家の子です」


 両親の行方は分からない。

 寺が焼かれてから、京鈴は名前を何度も変えていた。


 お花。

 お松。

 鈴。


 名を尋ねる相手によって、違う答えを返す。


「京鈴と名乗れば、追い出されると思うているのでしょう」


 天后てんこうの声に、宗白は答えなかった。


 その日から、茶太郎は毎朝、同じ石の上へ小さな椀を置いた。


 一日目は、大根と粟の汁。

 夕方まで手をつけられず、冷たくなった。


 二日目は、柔らかく炊いた茶粥。

 雀が近づいたため、京鈴は物陰から石を投げて追い払った。

 それでも自分では食べなかった。


 三日目。

 茶太郎は椀を置くだけで、声もかけずに立ち去ろうとした。


「なんで毎日置くん」


 背後から、小さな声が聞こえた。


「食べるかもしれないから」


「食べへんかもしれん」


「そのときは片づける」


「名前、言わへんで」


「言わなくてもいいよ」


 京鈴は焼けた鈴を握ったまま、茶太郎を睨んでいる。

 だが、茶太郎が十分に離れると、椀の前へ座った。


 一口。

 もう一口。

 突然、眉を寄せる。


「……これ、うちの味やない」


 茶太郎の胸に、苦い味が広がった。

 失敗したと思った。


「ごめん。おいしくなかった?」


「違う」


 京鈴は椀を抱えた。


「母ちゃんの汁は、もっと味噌が辛かった。大根も、もっと薄かった」


 失われた家の味を、京鈴は覚えていた。

 茶太郎は作り直すとは言わなかった。

 母親の味を知らない自分が、同じものを作れるとは思わなかったからだ。


「明日は、大根を薄くしてみる。でも、お母さんと同じ味にはできないと思う」


「……それでええ」


 京鈴は汁を最後まで飲んだ。

 空になった椀を、自分で炊き出し場へ返す。

 それが、彼女が初めて列の中へ入った日だった。


 午後、町人たちは焼け残った蔵から材木を運び出していた。

 京鈴は少し離れた場所で、その作業を見ている。

 茶太郎が蔵へ近づいた瞬間、京鈴の顔色が変わった。


「入ったらあかん!」


 茶太郎は足を止めた。


「上の木、泣いてる!」


 ぎし。


 誰にも聞こえないほど小さな音が、梁から鳴った。


 弥七が茶太郎を抱えて後ろへ跳ぶ。


 直後、焼けた梁が折れ、屋根の一部が崩れ落ちた。


 土煙が道へ広がる。


「崩れる音が分かったの?」


 茶太郎が尋ねる。


 京鈴は首の鈴を握った。


「家が焼ける前から、木はずっと鳴いてた。父ちゃんは大丈夫や言うた。でも、そのあと……」


 言葉が途切れる。

 茶太郎は続きを求めなかった。


 宇治土公うじどこう勾陳こうちんが蔵の地盤を確認し、町人たちは近づかないよう縄を張った。


 京鈴の耳は建物を支える霊力ではない。

 木が割れ、釘が抜け、荷重が移るときの小さな音を聞き分けているのだ。


 夕方。


 茶太郎は長刀の木札を取り出した。


「この金属の音も、聞いたの?」


 京鈴はしばらく黙っていた。

 やがて焼けた鈴を石へこすり、濁った音を出す。


「もっと長い音やった」


 ぎいん——。


「布で包んだ長いもんを、二人で運んでた。先っぽが布から出て、道の石に当たった」


「どっちへ行った?」


 京鈴は東を指した。


「朝になる前。車やない。人が担いでた」


「顔は見た?」


「見てへん。見たら、見つかるから」


 さらに、運んでいた一人は左足を擦るように歩いていたという。

 ざっ、ざっ、と片方だけ重い足音。


 宗白は証言を帳面へ記した。

 ただし、京鈴の本名と家の宗派は書かなかった。


 夜が近づいた頃、復興用の釘を作る鍛冶場から長い金属音が響いた。


 ぎいん——。


 京鈴の椀が手から落ちる。


「あの音!」


 町人たちが一斉に鍛冶場を振り返った。

 火の前には、左足を引きずる若い鍛冶職人が立っている。

 腰には、曲がった釘の束。

 手には、長い鉄を打ったばかりの槌。


「あいつや!」


「長刀を溶かしたんやないか!」


 怒った町人たちが鍛冶場を囲む。

 若者は槌を置かず、口元を歪めた。


「証拠もないのに、よう吠える町やな」


 釘打ちの甚八じんぱちは、燃える炉を背に町人たちを睨み返した。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


京鈴が名前を伏せたのは、嘘をついて誰かを困らせるためではありません。名や出自を知られることが危険だった時代には、沈黙そのものが身を守る手段になることもあります。


彼女の証言から浮かんだのは、片足を引きずる人物と金属音。しかし、それだけで罪を決めることはできません。次回は、疑いを向けられた鍛冶職人・甚八と向き合います。


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『茶太郎がゆく』
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