第54話 「蛙鳴のメイと、声を失った子どもたち」
――騒がしい声も、生きている証――
六角堂の池で、一匹の大蛙が後ろ脚だけで立っていた。
黒緑色の丸い身体。
大きく膨らむ喉。
そして右腕を天へ突き上げている。
「ゲコォォォン! 朝が来たぞ! 腹が減った者は声を出せぇ!」
池坊専応が困ったように見つめていた。
「昨日から、ずっとこの調子なのです」
茶太郎たちは舟で六角堂へ向かった。
大蛙は到着した茶太郎を見つけると、右腕をさらに高く掲げた。
「おお! 小さき料理人よ! よく来たな!」
「君、誰?」
「わしは蛙鳴のメイ! 鳴いて、騒いで、命の居場所を知らせる蛙じゃ!」
メイの声が池へ響くと、周囲の蛙たちが一斉に鳴き返した。
ゲコゲコ。
ケロケロ。
境内は話し声も聞こえないほど騒がしい。
「少し静かにできないの?」
ゆかりが耳を塞ぐ。
「静けさが必要なときは静かにする! じゃが、今は黙りすぎておる!」
メイが指した先には、避難してきた子どもたちが座っていた。
誰も遊ばない。
誰も泣かない。
炊き出しの椀を渡されても、声を出さずに受け取っている。
ユキが小声で説明した。
「火事を見てから、声が出えへん子が増えてる。夜中に泣く子もおるけど、昼はずっと黙ったままや」
中でも五歳の少女・小菊は、火事の日から一言も話していない。
母親が呼びかけても、唇を固く閉じるだけだった。
「声を出しなさいと迫ってはいけません」
山科言継が告げる。
「怖れ方も、戻るまでの時間も人それぞれ。蛙の声で治るなどと考えてはなりません」
「承知しておる!」
メイは胸を張った。
「わしは治せぬ。声を引っ張り出すこともできぬ。ただ、声を出しても叱られぬ場所を作るだけじゃ!」
メイは子どもたちの前へ座った。
「言葉でなくてよい。わしの真似もせんでよい。嫌なら聞いているだけでよいぞ」
そして、小さく喉を鳴らした。
「けろ」
池の蛙が一匹だけ答える。
「けろ」
メイが今度は木椀を叩いた。
「こん」
別の椀を叩く。
「からん」
茶太郎も匙で鍋の縁を軽く鳴らした。
「ちん」
こたろが面白がり、二つの椀を合わせる。
「かーん!」
「それは大きすぎる!」
かん太が止めると、子どもの一人が吹き出した。
ユキは薪を二本打ち合わせ、弥七は包丁で大根を刻む音を一定に揃える。
とん、とん、とん。
茶太郎はその拍子に合わせ、柔らかな大根と粟の汁を作った。
メイが右腕を振る。
「とん、けろ、とん、けろ!」
子どもたちは少しずつ身体を揺らし始めた。
声を出す者。
手を叩く者。
ただ見ている者。
誰にも同じ反応を求めなかった。
小菊は、まだ黙っている。
茶太郎は出来上がった汁を小菊の前へ置いた。
「熱いから、すぐ飲まなくていいよ」
小菊は湯気を見つめた。
やがて椀へ息を吹きかける。
「ふう……」
母親が息を呑んだ。
それは言葉ではない。
けれど、火事の日から初めて小菊が自分から出した音だった。
誰も「しゃべった」と騒がなかった。
メイも大声を出さず、同じように小さく息を吹く。
「ふう……」
小菊が、もう一度吹いた。
その口元が、ほんの少し緩んだ。
茶太郎は《縁の料理覚書》へ、椀から立つ湯気と蛙を描いた。
『声は無理に出させない。音を出してもよい場所を、みんなで作る』
夕方になると、メイは井戸の縁へ上がった。
「さて、次はわしの働きを見せよう!」
井戸へ向かって鳴く。
「ゲコォン!」
声は井戸の壁へ反響し、少し遅れて戻ってきた。
メイは首を傾げる。
もう一度、今度は短く鳴いた。
「ケロッ!」
返る音が途中で二つに割れる。
「井戸の壁に空洞がある。どこか崩れかけておるぞ」
弥七が縄を使い、灯りを下ろして確かめる。
水面近くの石組みが一部抜け、濁った土が流れ込んでいた。
「このまま使えば、さらに崩れるかもしれん」
メイの力は、井戸を直すものではない。
響きの違いから、見えない空洞を探す力だった。
井戸はすぐ使用を止め、町衆が周囲へ縄を張った。
小菊は、その作業を見ながらメイの背中を指さした。
そして、かすかな声で言った。
「……けろ」
メイの喉が大きく膨らむ。
だが、今度は叫ばなかった。
「うむ」
小さく答え、右腕を高く掲げる。
「その一声、しかと聞いたぞ」
井戸の底では、濁った水がゆっくり揺れていた。
崩れた石組みの奥から、青い鱗のような光が一度だけ瞬いた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
声を出すことだけが、思いを伝える方法ではありません。黙ること、指をさすこと、そばにいることも、一つの意思表示です。メイの大声は、子どもたちへ無理に話させるためではなく、小さな声を聞き落とさないためにあります。
井戸の異変を見つけたのも、魔法で修理する力ではなく、返ってくる音の違いでした。その井戸の底では、青い鱗が光っています。




