第50話 「文字を食べる紙魚と、三冊の花伝書」
――知恵を残すには、紙を守る手が要る――
庄七が筆を置くと、墨が小さく盛り上がった。
紙の繊維の間を、銀白色の虫が走っている。
「紙魚や」
ユキが針先で虫の進路を止めた。
「本や古い紙を食う、小さな虫」
庄七が慌てて花伝書を持ち上げる。
表紙の裏には、細い食い跡がいくつも伸びていた。
紙そのものだけでなく、冊子を綴じる糊にも虫が集まっている。
「盗まれたときについたの?」
茶太郎が尋ねる。
「違うな」
弥七が文庫の棚を調べた。
「前からおったんや。暗くて湿った棚に置かれ、誰も気づかんかった」
花伝書を取り戻しても、そのまま棚へ戻せば、内側から食われていく。
敵は盗人だけではなかった。
湿気、火、虫、そして人の油断。
どれも霊力では消せない。
「すぐに薬を振りかけたら?」
町人の提案を、池坊専応は退けた。
「強い匂いや液が紙を傷めることもあります。まず状態を見ましょう」
六角堂の縁側へ白い布を広げ、冊子を一枚ずつ慎重に開いた。
直射日光には当てない。
風通しのよい日陰で湿気を抜き、柔らかな刷毛で虫と塵を落としていく。
ユキは綴じ糸を外した順番を覚え、紙の端へ小さな番号を記した。
弥七は棚板を外し、隙間に残った虫や卵を掃き出す。
蒼は屋根の傷みを見つけた。
「昨夜の雨が、柱を伝って棚の裏へ入っている」
「それで湿ったのか……」
町衆は屋根を補修し、棚を壁から少し離した。
床へ直接置かず、脚のある台へ載せる。
乾燥させた山椒の枝と香りの強い木片も、紙へ触れないよう棚の周囲へ置いた。
虫を完全に防げるわけではない。
だから定期的に開き、風を通し、食い跡がないか確かめる役を決めた。
「霊的な結界を張れば、虫も入れないんじゃない?」
茶太郎が橋姫へ尋ねる。
「結界は怨気や悪意を遮るものです。餌を求める虫に、悪意はありません」
「じゃあ、人が見ないとだめなんだね」
「ええ。守りとは、ときに地味な仕事なのです」
紙魚に食われた箇所は、幸い文字の少ない端だった。
庄七は薄い補修紙を裏から当て、必要最小限の糊で繕う。
糊を厚く塗れば、乾きにくくなり、再び虫を呼ぶ。
茶太郎は、その手元をじっと見ていた。
「料理と同じだ。たくさん使えば強くなるわけじゃない」
「せやな」
庄七は苦笑した。
「わしは米を得るために、この書を売ろうとした。今は米の糊を使うて、書を直しとる」
「その手で直したことも、書に残せばいいと思う」
庄七は驚いた顔をした。
「盗んだこともか?」
「うん。どうして盗んだか、どうして返したかも。隠したら、次の人が同じところで困るから」
専応は静かに頷いた。
「失敗を記す覚書を持つ者らしい答えです」
花伝書が乾くと、庄七は写しを作り始めた。
一字ずつ読み上げ、ユキが元の書と照らし合わせる。
弥七は頁の抜けを確認し、専応が枝の図を描き直した。
三日かけて、三冊の写しが完成した。
一冊は六角堂。
一冊は、都の別の寺院へ。
そして一冊は、宇治の森彦右衛門の蔵へ預けることになった。
「同じ場所へ三冊置けば、火事で一度に失う」
専応は言う。
「離して守り、互いに無事を確かめるのです」
宇治へ運ぶ一冊は油紙で包み、木箱へ収めた。
ユキが抱え、弥七が先導し、蒼が上空を警戒する。
ミカエは帰り道の最後尾を守った。
シオは途中の休息場所へ、到着予定を知らせて回る。
秘密基地へ戻ると、茶太郎は花伝書の写しを乾いた棚へ置いた。
壁の地脈が淡く光り、六角堂へ続く《縁窓》が開く。
以前は掌ほどだった窓が、今度は両手を広げたほどの大きさになっていた。
向こう側では、専応が同じ写しを棚へ納めている。
「見える!」
茶太郎が手を振ると、専応も気づいて一礼した。
しかし木箱を窓へ近づけても、通すことはできない。
まだ光と音だけの戸である。
天空が告げた。
「縁は強くなった。だが質量を運ぶには足りぬ。焦るな」
茶太郎は頷き、棚の前へ小さな札を掛けた。
『月に一度、開いて風を通すこと』
貴重な書だから、閉じ込めるのではない。
何度も開き、読み、異変を確かめる。
それが、未来へ渡すための守り方だった。
その夕方。
秘密基地の外で、伊平じいさんが土の山を前に腕を組んでいた。
「さて、湿った米と藁を積んだはええが……このままでは臭うばかりじゃ」
土山の内部から、白い湯気が立っている。
茶丸が鼻を近づけ、すぐに顔を背けた。
『腐敗と発酵が混じっておる。扱いを誤れば、畑を傷めるぞ』
茶太郎は《縁の料理覚書》を開いた。
次に学ぶ相手は、紙でも火でもない。
熱を持ち、ゆっくり姿を変える土だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、書物を守る仕事を描きました。
紙魚は紙や糊を傷める虫として知られています。本作では、文字へ集まる霊的な紙魚を交えつつ、乾燥、虫干し、点検、分散保存という人の手による対策を中心にしました。
三冊の写しは、六角堂、都の別の寺、宇治の蔵へ分けて保管されます。大切な書物は閉じ込めるだけでなく、定期的に開き、読み、異変を確かめることが必要です。
次に茶太郎が学ぶのは、熱を持ちながら姿を変える土。物語は発酵と堆肥の章へ進みます。




