第49話 「盗まれた花伝書と、腹を空かせた写し手」
――未来へ残す紙と、今日を生きる米――
縁窓の向こうから、六角堂の鐘が響いていた。
しかし、茶太郎の手は窓を通らない。
「今の戸は、光と音だけじゃ」
ミカエが厳しく告げる。
「近道に頼るな。帰り道を走るぞ」
蒼が先行して飛び、茶太郎たちは夜明けを待たず舟へ乗った。
伊平じいさんが茶太郎を抱き、弥七とユキが櫂を取る。
シオは川筋を確かめ、ミカエは舟の最後尾で何度も宇治を振り返った。
六角堂へ着いた頃には、空が白み始めていた。
池坊専応が、荒らされた文庫の前に立っている。
「盗まれたのは一冊だけです」
棚には他の書も残っていた。
持ち去られたのは、専慶以来の花の考えと、枝の立て方を写した花伝書。
金銀の飾りはない。
ただの紙を綴じた冊子である。
「どうして、それだけを?」
茶太郎が尋ねる。
「価値を知っていた者か、価値があると聞いた者でしょう」
弥七は破られた戸口を調べた。
「こじ開けたんやない。内側から閂を外しとる。寺の出入りを知る者や」
ユキは床へ落ちた紙片を拾った。
「これは花伝書の紙やない。写し損じや」
紙には、同じ文字が何度も練習されている。
端には米粒を潰した糊が残っていた。
「字を書き写す者が関わってる」
蒼が戻ってきた。
「裏門から出た男を見た。灰色の包みを抱え、西へ向かっている。ただ、屋根の陰へ入って見失った」
弥七は裏門の土を確かめる。
片方だけ擦り減った草履跡。
歩幅は狭く、走り慣れていない。
「武芸者やない。右足を痛めとる」
専応は静かに目を閉じた。
「寺へ写経の手伝いに来ていた庄七という若者がいます。火事で家と仕事場を失いました」
ユキが町人から庄七の行き先を聞き出した。
「土倉へ行く言うてたらしい。紙を銭に換えるつもりや」
一行が土倉の並ぶ通りへ急ぐと、庄七は入口の前で立ち尽くしていた。
包みを抱えたまま、中へ入ることができずにいる。
弥七が退路を塞ぎ、ユキが前へ出た。
「その包み、六角堂へ返そ」
「近づくな!」
庄七の手には、小さな刃物があった。
だが、持つ手は震えている。
「これを売れば、米が買える。うちの小屋には子どもが八人おるんや!」
「せやから盗んだん?」
「紙で腹はふくれへん!」
庄七の叫びに、茶太郎は何も言い返せなかった。
花伝書は未来へ残すべきもの。
けれど庄七の小屋では、今日食べる米がない。
どちらか一方を選べばよい話ではなかった。
「花伝書を売って、何日分の米になるの?」
茶太郎が尋ねる。
「……分からん。せやけど、名のある書や。高う売れるはずや」
土倉の主人が包みを遠目に見て首を振った。
「盗品と知れた書を買う者は限られる。買い叩かれ、あとで脅されるだけや」
庄七の顔から力が抜けた。
「ほな……どうしたらええんや」
茶太郎は専応を見上げる。
「この人、字を写せるんですよね」
「ええ。丁寧な手を持っています」
「花伝書を返して、代わりに写す仕事をお願いできませんか? 一冊しかないから、なくなったら困るんでしょう?」
専応はしばらく考えた。
「六角堂だけで守ろうとしたことが、そもそもの誤りだったのかもしれません」
花伝書が一冊しかなければ、火や水、盗難で失われる。
写しを作り、別々の場所で守れば、すべてが一度に消える危険は減る。
「庄七。書を返しなさい」
専応は責める声ではなく、仕事を命じる声で言った。
「その手で三部、写してもらいます。働きに応じて米を渡しましょう。ただし、盗んだことが消えるわけではありません。町の前で自ら話し、償いなさい」
庄七は刃物を置き、包みを差し出した。
「……すまんかった」
花伝書は無事だった。
しかし、川霧を吸って表紙がわずかに湿っている。
ユキは乾いた布で包み直し、弥七は油紙を外側へ重ねた。
「紙は霊具やない。濡れたら傷むし、燃えたら終わる」
「だから人が守るんだね」
茶太郎は答えた。
六角堂へ戻る道では、弥七が先を調べ、ユキが花伝書を抱え、蒼が屋根の上から周囲を見張った。
ミカエは最後尾で庄七が遅れていないか、何度も振り返る。
その日の昼、庄七の小屋へ米と味噌が届けられた。
それは盗みへの褒美ではない。
八人の子どもを《六角割付》から漏らしていた、町の側の不足を正したものだった。
専応は茶太郎へ言った。
「書を守るとは、紙だけを守ることではありません。書き写す手と、それを読む未来も守ることです」
茶太郎は《縁の料理覚書》へ記した。
『大事な作り方は、一人だけで抱えない。失敗も直し方も、次の人へ渡す』
その夜、庄七が最初の一文字を書き始めた。
だが紙面へ筆を置いた瞬間、墨が不自然に丸く盛り上がった。
文字を避けるように、紙の中を何かが走っている。
ユキが針を構えた。
「待って。この紙——中に虫がおる」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
花伝書を盗んだ庄七には、盗みを働いた責任があります。同時に、その背景には八人の子どもと、支援から漏れた暮らしがありました。
罪をなかったことにはせず、町の前で償う。その一方で、庄七の文字を写す技術を仕事へ結び、子どもたちへ必要な米を届けることになりました。
一冊しかない書物は、火や水、盗難によって失われます。だから写しを作り、複数の場所で守る。
次回は、紙の中で文字を食べる小さな虫と向き合います。




