第5話 「秘密基地で異変が起きる」
――縁の子らが集う場所に、古き守り神が現れる――
宇治の朝風には、若い茶葉の香りが混じっていた。
「茶太郎〜! 早く行こ〜!」
こたろが茶畑へ続く道を、勢いよく駆けてくる。
「あっ、こたろ。走ったら――」
茶太郎が声を上げた途端、こたろは前にあった小石に気づいた。
「今日は転ばないよ〜!」
両腕を大きく広げ、危ういところで踏みとどまる。
ところが、後ろから来たかん太へ勢いよくぶつかった。
「兄ちゃんがおらんかったら、やっぱり転んどるやないか」
「でも、地面にはついてないよ〜!」
「そういうことやない」
かん太が息をつく。
縁も小さく笑った。
「こたろ、茶畑ではゆっくり歩こうね」
「は〜い……」
その肩では、三毛猫の希太が呆れたように尻尾を振っている。
『毎日、懲りないにゃ』
希太の声が、茶太郎の胸へ響いた。
「希太も、ゆっくり歩いてって言ってるよ」
「猫さんにまで言われた〜」
先日から、茶太郎には茶丸と希太の言葉が、少しずつ聞こえるようになっていた。
いつでも話せるわけではない。
二匹が強く何かを思ったとき、その心が短い言葉となって伝わってくるらしい。
足元では、すっかり歩けるまでに回復した茶丸が、一行を見守っている。
茶太郎、こたろ、縁。
そして茶丸と希太。
かん太に見守られながら、小さな一行は茶畑の奥へ向かった。
◇
「ここだよ」
縁が足を止めた。
茶畑の脇に、小さな竹林がある。
背の低い竹と草に囲まれ、奥には子どもが数人座れそうな空間が広がっていた。
「昨日見た白い糸が、ここへ集まってるの」
縁の瞳には、竹の根と土、茶の木の間を流れる、柔らかな白い糸が見えていた。
四本の暗い糸とは違う。
日の光を受けた綿のように、温かく穏やかな色だった。
「ここなら、黒い糸も見つけやすい?」
茶太郎が尋ねる。
「うん。それに、この場所そのものが、わたしたちを守ろうとしてるみたい」
「ほんなら、ここを秘密基地にしよ〜!」
こたろが両手を上げた。
『悪くない場所だ』
茶丸は竹林へ入り、土や竹の匂いを確かめた。
希太も縁の肩から飛び降り、日当たりのよい場所へ座る。
『ゆかりが気に入ったなら、ここでいいにゃ』
「希太も賛成だって」
茶太郎が伝えると、縁はうれしそうに笑った。
秘密基地を作るといっても、三歳の子どもだけでは竹を切ることも、重い枝を運ぶこともできない。
かん太が枯れ枝や尖った石を取り除き、安全な場所を選ぶ。
落ちていた細い竹を組み、倒れないよう地面へ固定した。
茶太郎たちは、柔らかな葉や藁を運んだ。
「こたろ、欲張って持ったら前が見えへんよ」
「大丈夫だよ〜!」
こたろは落ち葉を両腕いっぱいに抱え、慎重に歩き始めた。
一歩。
二歩。
今度こそ無事にたどり着くかと思われたが、最後に希太の尻尾を踏みそうになった。
「シャーッ!」
「わあっ!」
驚いたこたろが落ち葉を放り出す。
葉はふわりと舞い上がり、かん太の頭へ降り積もった。
「……誰が、兄ちゃんまで埋めろ言うた」
髪に葉を載せたかん太を見て、皆が声を上げて笑った。
やがて竹に囲まれた、小さな空間が出来上がった。
立派な小屋ではない。
雨を防ぐことも、夜を過ごすこともできない。
それでも子どもたちにとっては、十分に特別な場所だった。
「ここ、僕らの場所だね」
茶太郎が藁の上へ座ると、茶丸が隣へ寄り添った。
「うん。三つの糸が、ここで一つになってる」
縁の瞳には、茶太郎たちの間を行き交う金、桃、若草の糸が見えていた。
それらは竹林を流れる白い糸と重なり、組紐のように結ばれ始めている。
「おーい。えらい楽しそうなもんを作っとるな」
声に振り返ると、茶畑を見回っていた伊平じいさんが立っていた。
日に焼けた顔をほころばせ、子どもたちの秘密基地を眺めている。
「伊平じいさん!」
「ここ、僕らの秘密基地なんだよ」
「秘密やのに、わしに教えてええんか?」
「あっ……」
茶太郎が口を押さえる。
こたろは胸を張った。
「伊平じいさんは仲間だから、いいんだよ〜!」
「ほう。ほんなら仲間になった印に、ええもんを見せたろ」
伊平じいさんは籠から、朝摘んだばかりの茶葉を取り出した。
「今年の若葉や。香りを確かめてみい」
茶太郎は、両手で一枚受け取った。
柔らかな葉には朝露が残っている。
指で軽く触れると、青く爽やかな香りが立った。
「いい匂い……」
「摘んだばかりの葉は生きとる。せやけど、このまま湯を注いでも、いつもの茶にはならん」
「ならないの?」
「蒸して、揉んで、乾かして。人の手で香りを引き出して、ようやく茶になるんや」
伊平じいさんは、別の竹筒を取り出した。
中には、すでに仕上げられた若い茶が入っている。
「こっちは、わしらが手をかけた茶や」
摘みたての葉と、仕上げられた茶。
同じ葉から生まれたものなのに、香りも手触りもまるで違う。
茶太郎は二つを交互に見つめた。
「人の手で、変わるんだね」
「せや。無理やり変えるんやない。その葉が持っとる一番ええところを、出してやるんや」
その言葉は、茶太郎の胸へすっと入ってきた。
料理も同じなのかもしれない。
相手を自分の思いどおりに変えるのではない。
その人や霊が、もともと持っていた温かさを思い出せるよう、手を添えるのだ。
「せっかくや。みんなで飲んでみるか」
伊平じいさんは竹林の外へ、小さな火鉢と湯の入った土瓶を用意した。
火と熱湯は、伊平じいさんとかん太が扱う。
茶太郎たちは少し離れ、湯が冷めるのを待った。
「茶は、急かしたらあかん」
伊平じいさんは湯加減を確かめる。
「熱すぎれば苦うなる。葉が開くのを、ゆっくり待つんや」
その言葉を聞き、茶太郎は茶丸へ料理を作った日のことを思い出した。
温かな椀を前に置き、茶丸が自分から顔を上げるまで待った。
「お茶も、待つんだね」
「人も茶も、待つ時間が要ることがある」
伊平じいさんが、仕上げた若茶へ湯を注いだ。
やがて湯気とともに、甘く柔らかな香りが竹林へ満ちていく。
「いい匂い〜!」
こたろが鼻をひくひくさせた。
そのとき、茶太郎の胸の奥が、かすかに温かくなった。
茶丸を助けたときと同じ光が、今度は手ではなく、茶を囲む皆の間へ広がっていく。
茶太郎が湯飲みを見つめると、茶の表面に淡い金色の光が揺れた。
「茶太郎の糸が、お茶の香りに混じってる」
縁が息をのむ。
伊平じいさんが、小さな湯飲みへ茶を分けた。
皆が手を伸ばそうとした、そのときだった。
竹林の奥から、風が吹いた。
竹も茶の木も、ほとんど揺れていない。
それなのに、茶の湯気だけが導かれるように、一か所へ集まっていく。
茶丸が立ち上がった。
希太も縁の前へ出る。
湯気の向こうに、小さな老人の姿が浮かび上がった。
茶葉のように深い緑の着物。
土色の杖。
長い眉の下では、穏やかな目が笑っている。
「ほほう。茶畑の子らが、ずいぶんとええ場所を見つけたものじゃ」
「……誰?」
茶太郎が尋ねる。
縁は、その袖をぎゅっと握った。
「茶太郎。この人、竹や土や茶畑と、何本も糸でつながってる」
老人を中心に、金色と深い緑の糸が地面へ伸びている。
「この土地の神さまや」
老人は愉快そうに笑った。
「よく見えておる。わしは、この辺りの茶畑を守る土地神じゃ」
茶丸が姿勢を正し、老人へ静かに頭を下げた。
『古き地の守り手か』
今度は、茶太郎にも茶丸の言葉がはっきり聞こえた。
土地神は茶丸の金色の瞳を見つめる。
「ずいぶん大きな力を、小さな体へ隠しておるのう」
『今は、茶太郎のそばにいる。それでよい』
土地神は目を細めた。
「そうか。よい縁を見つけたのじゃな」
茶太郎は茶丸を見た。
言葉の意味をすべて理解することはできなかった。
けれど、茶丸が自分のそばにいることを選んでくれた。
そのことだけで、胸の奥が温かくなった。
土地神は湯飲みをのぞき込んだ。
「この茶からは、不思議な縁の香りがする。わしにも一杯、分けてもらえるかのう?」
「うん。どうぞ!」
伊平じいさんが新しい湯飲みへ茶を注ぎ、茶太郎が両手で差し出した。
土地神はひと口含むと、ゆっくりと目を閉じた。
「ほぉ……」
老人の体から、淡い緑の光が広がる。
光は竹の根を伝い、乾いた土へ染み込んでいった。
「無理に心を開かせるのではなく、開くまで待つ味じゃ」
茶太郎は目を丸くした。
自分が茶丸の前で待っていたことを、この神は知っている。
「茶太郎。そなたは、温かなものを置いて待つことができるのじゃな」
「お腹がすいてても、怖いと食べられへんから」
「ほほ。簡単なようで、なかなかできぬことじゃ」
そのとき、竹林の外から、こつ、こつ、と硬い音が聞こえてきた。
「何の音〜?」
こたろが顔をのぞかせ、目を丸くした。
「お、お地蔵さんが歩いてる〜!」
茶丸が倒れていた場所に立っていた、あの小さな石地蔵だった。
短い石の足で一歩ずつ進み、秘密基地までやってくる。
縁には、地蔵から伸びる白い糸が、茶丸と茶太郎へつながっているのが見えた。
「茶丸を見守ってた、お地蔵さま……」
地蔵は茶丸の隣へ、どっこいしょと腰を下ろした。
「茶太郎くん。あの日、この子を助けてくれて、ありがとうねぇ」
穏やかな声だった。
「お地蔵さまが、茶丸を守ってくれてたの?」
「わしにできたのは、濁りがこの子の命まで奪わぬよう、そばに置くことだけじゃった」
「濁り……」
「弱った体を温め、もう一度生きようと思わせたのは、君と家族の手。それに、あの一椀じゃよ」
茶太郎は少し照れながら、お地蔵さまにも茶を差し出した。
「どうぞ」
「ありがたいねぇ」
地蔵は茶をひと口飲み、ほっとしたように目を細めた。
「優しい味じゃ。茶太郎くんだけではない。ここに集まった皆の気持ちが、よう混ざっておる」
土地神は竹林を見回し、杖で地面を軽く叩いた。
とん、と柔らかな音が響く。
竹林の周囲へ淡い光が走り、地面に小さな円を描いた。
「この場所は、縁の結び目になったようじゃ」
「縁の結び目?」
「人と霊、猫と土地。異なるものが集まり、同じ茶を囲める場所じゃよ」
土地神は茶太郎たちを見渡した。
「ここを、おぬしらの拠点とするとよい。わしと地蔵も、できる限り見守ろう」
「悪いものは来なくなるの?」
「弱い邪気なら近づきにくくなる。じゃが――」
土地神の顔から、笑みが消えた。
杖の先が触れている地面から、黒い染みが浮かび上がった。
縁が息をのむ。
「暗い糸……」
一本の黒い糸が四つに分かれ、地面を這うように伸びていく。
「濁りは一つではない」
土地神の声が低くなる。
「一つは、大地の奥へ」
黒い糸の一本が、茶畑の土へ潜った。
「一つは、宇治川へ」
二本目が、水の流れる方角へ伸びる。
「一つは、南の大きな池へ」
三本目が、遠く霞む水辺へ向かう。
「そして最後の一つは、山に暮らす獣たちの心へ近づいておる」
四本目が山の方角へ伸びた途端、茶丸と希太が同時に毛を逆立てた。
茶太郎の舌に、墨を溶かしたような苦みが広がる。
「茶丸についてたのと、同じ味……」
「そうじゃ」
土地神はうなずいた。
「あの猫は、大地を巡る濁りに触れた。地蔵の守りと、そなたの料理がなければ、心まで呑まれていたかもしれぬ」
茶太郎は隣にいる茶丸を抱き寄せた。
茶丸は嫌がらず、その腕の中へ身を預ける。
「この黒い糸、怒ってるだけやない」
縁が糸を見つめた。
「泣いてる。四つとも、何かを探してるみたい」
土地神は静かに目を閉じた。
「濁りの下には、忘れられた声がある。じゃが、わしにはこの土地を離れて、確かめにゆくことができぬ」
「どうしたらいいの?」
茶太郎が尋ねた。
「今日は、まだよい」
土地神は再び、穏やかな顔へ戻った。
「まずは茶を飲み、この場所が生まれたことを喜ぼう。頼みたいことは、明日話す」
茶丸が竹林の外を見つめた。
『茶太郎。ここは守られるだけの場所ではない』
「違うの?」
『ここから、守りにゆくのだ』
希太も縁の足元へ寄り添った。
『ゆかりは俺が守るにゃ』
「僕も一緒に守るよ」
『……お前も少しくらいは役に立つにゃ』
「希太、仲よくしなあかんよ」
縁にたしなめられ、希太は不満そうに耳を伏せた。
その姿を見て、皆が笑った。
茶太郎は自分の湯飲みを手に取った。
土地神、お地蔵さま、伊平じいさん、かん太、こたろ、縁。
そして茶丸と希太。
人も、猫も、神も、同じ茶の香りを囲んでいる。
「みんなで飲むと、もっとおいしいね」
「ほほ。ほんまに、ええ子らじゃ」
土地神の笑い声が、竹林へ響いた。
こうして茶畑の秘密基地は、人と霊の縁が集う、小さな拠点になった。
けれど、その足元では。
四つに分かれた黒い糸のうち、大地へ潜った一本が、ひときわ強く脈打っていた。
竹林から少し離れた、忘れられた小さな祠。
崩れかけた石の奥で、一匹のヒキガエルが目を開く。
「……誰か」
地の底から響くような声が、茶畑の土を震わせた。
「わしの声を、聞いてくれ」
『あの声は、土地神のものではない』
茶丸の背中の毛が、ふわりと逆立った。
『もっと小さい。もっと弱い。……それに、腹を空かせている』
祠の奥から、かすれた声がした。
『もう、だれも……おぼえてへん』
【茶太郎の宇治小話】
茶は、摘んだ葉へそのまま湯を注ぐだけでは完成しません。人の手で蒸し、揉み、乾かすことで、葉が持つ香りを引き出します。ただし、猫はカフェインに敏感です。そっと香りだけ漂わせてみました。
次回、忘れられた祠から、最初の声が届きます。




