第4話 「莵々(とと)の縁(ゆかり)と希太(きた)、そして茶丸」
――三つの縁が、初めて結び合う日――
茶丸を助けてから、三日が過ぎた。
黒猫の体には少しずつ力が戻り、今では自分で水を飲み、店の中を歩けるようになっていた。
とはいえ、まだ長く歩くと疲れるらしい。
その朝も茶丸は、茶太郎の足元で丸くなり、時折、黒い前足を丁寧に舐めていた。
前足には、あの墨のような苦みがわずかに残っている。
茶太郎が触れようとすると、茶丸は何でもないというように、尻尾でその手を押し返した。
「まだ苦いのに……」
「にゃ」
心配するな、とでも言いたげな鳴き方だった。
店内には、宗次が開いた茶箱から爽やかな香りが広がっている。
「茶太郎。今日はお客さんが来るよ」
茶葉を量っていた志乃が声をかけた。
「誰が来るの?」
「組紐屋の莵々(とと)さん。茶箱に結ぶ紐の色合わせをしたいんやって。縁ちゃんも一緒に来るそうやよ」
茶太郎は、ぱっと顔を上げた。
「ゆかり、来るの?」
ちょうどそのとき、店の戸がことりと開いた。
「ごめんください」
母親に続いて、淡い桃色の着物をまとった女の子が店へ入ってきた。
髪には、細い糸を丁寧に編んだ組紐飾りが揺れている。
「……こんにちは」
「ゆかり!」
茶太郎が駆け寄ると、縁はふわりと笑った。
「茶太郎。元気そうでよかった」
「ゆかりも元気?」
「うん。でも、今日は少し不思議なものを見たの」
「不思議なもの?」
縁は戸口の外を振り返った。
「ここへ来る途中、金色の糸が見えたの。風に流されて、茶太郎のお家まで続いてた」
茶太郎には何のことか分からない。
けれど縁の顔を見た途端、舌の奥に、柔らかな甘さが広がった。
茶丸の料理を作ったときとは違う。
熟れた桃のような、安心する味だった。
「ゆかり、見せたい子がいるんだ。こっちに来て」
茶太郎は縁の手を取り、店の奥へ案内した。
茶丸は布団の上に座り、前足を舐めながら二人を見ている。
「この子、茶丸。茶畑で倒れてたんだ」
「この子が、茶太郎の助けた猫さん……」
縁が茶丸を見つめた。
その瞳の奥に、淡い光が走る。
「どうしたの?」
「この糸だったんだ」
縁は茶丸の周囲へ視線を巡らせた。
「茶丸から茶太郎へ、太い金色の糸がつながってる。外で見た糸より、ずっと温かい色」
「ゆかりには、糸が見えるの?」
「いつもやないけど、ときどき見えるの。人と人をつなぐ糸とか、人と物をつなぐ糸とか」
縁は少し考え、言葉を加えた。
「土地から伸びてる糸もあるよ。楽しそうな糸も、泣いてるみたいな糸も」
「糸も泣くの?」
「声は聞こえへん。でも、色を見たら分かるの」
縁は茶丸を怖がらせないよう、少し離れた場所へしゃがんだ。
「こんにちは。わたしは縁。茶太郎のお友達だよ」
茶丸は金色の目で、縁をじっと見つめた。
「にゃう」
低く鳴き、尻尾を一度だけ動かす。
「挨拶してくれた」
縁がうれしそうに笑った。
「うちにも猫がいるの。希太っていう三毛猫」
「きた?」
「うん。ちょっと変わった顔で、いつも不機嫌そうにしてる。でも、本当は優しい子なの」
二人の話を聞いていた志乃が、驚いたように振り返った。
「三毛猫の男の子なん? それは珍しいねぇ」
「母さまも、めったにおらへん猫やと言うてた」
縁は声をひそめ、茶太郎へ顔を近づけた。
「それにね、希太は、ただの猫やないかもしれへんの」
「茶丸みたいに?」
「宇治の古い御方との縁を受け継いだ、守り猫やないかって、母さまが言うてた」
茶丸の耳が、ぴくりと動いた。
金色の瞳が、縁をまっすぐ見つめる。
「茶丸?」
「……にゃ」
何かを確かめるような、低い声だった。
「茶太郎。よかったら莵々へ来る? 希太にも会ってほしいの」
「行く!」
茶太郎が答えると、茶丸も布団から立ち上がった。
まだ足取りはゆっくりだが、置いていかれるつもりはないらしい。
「茶丸も行く?」
問いかけると、茶丸は当然だというように先へ歩き出した。
◇
組紐屋の莵々(とと)には、色とりどりの糸が並んでいた。
紅、藍、萌黄、山吹。
細い糸が幾重にも交わり、丈夫で美しい一本の紐へ変わっていく。
職人の指が糸を運ぶたび、色の並びが少しずつ変わる。
「きれい……」
茶太郎が見とれていると、店の奥から一匹の猫が姿を現した。
黒、白、茶の毛が不揃いに交じった、雄の三毛猫。
少し潰れたような丸い顔に、むすっとした目つき。
愛想がよいとは言い難いのに、なぜか見ていると頬が緩んでしまう。
「希太。茶太郎が来たよ」
縁が呼びかける。
「にゃ」
希太は面倒そうに返事をしたものの、その目はしっかりと茶太郎を観察していた。
「かわいい……」
「シャッ!」
希太は傷ついたような顔をして、ぷいと横を向いた。
「かわいいは、嫌なの?」
「希太は、強そうって言われたいんよ」
「じゃあ……かわいくて強そう」
「シャーッ!」
「茶太郎、それやと同じや」
縁が笑う。
そのとき、茶太郎の後ろから茶丸が進み出た。
二匹の猫の視線がぶつかる。
茶丸が足を止めた。
希太も身を低くする。
「……にゃう」
茶丸が低く鳴いた。
希太の背中の毛が、一斉に逆立つ。
「フーッ!」
「希太、だめ」
縁が静かに名を呼んだ。
希太は不満そうに耳を伏せたが、唸るのをやめ、縁の足元まで戻ってくる。
茶丸も追わなかった。
二匹は互いの目から視線を外さないまま、相手の気配を量っているようだった。
「希太は、ゆかりの言うことをちゃんと聞くんだね」
「希太は、わたしを守ってくれてるの」
「守ってる?」
縁は希太の背中を撫でながら、少しだけ視線を落とした。
「わたしがまだ赤ちゃんやったころ、宇治橋の近くで、悪いものに狙われたことがあるの」
その言葉を聞いた瞬間、茶太郎の舌に冷たい苦みが広がった。
茶丸の前足に残っていたものと、よく似た味。
「どんなもの?」
「黒い糸」
縁は自分の足首へ触れた。
「橋の下から伸びてきて、わたしの足に巻きついたんやって。冷たくて、重くて……わたしが泣くほど、強く締まったそうやよ」
希太の喉から、低い唸り声が漏れる。
「そのとき、希太が飛び出してきたの。黒い糸へ噛みついて、何度も引きちぎってくれた」
「希太が、ゆかりを助けたんだね」
「うん。あのときから、ずっとそばにいてくれる」
縁が頭を撫でると、希太は目を細め、その手へ自分の額を押しつけた。
先ほどまでの不機嫌そうな顔からは想像できないほど、素直な仕草だった。
茶太郎の舌に広がった苦みも、二人の間にある温かな味に触れ、少しだけ和らいだ。
そのとき。
『守る』
低い声が、茶太郎の胸の奥へ響いた。
「えっ?」
茶太郎は辺りを見回した。
大人たちは店先で話している。
縁も何も聞こえていないようだった。
目の前では、希太が縁の足元に座り、茶太郎を睨んでいる。
「いま、希太が言ったの?」
「希太は鳴いてへんよ?」
縁が首を傾げる。
茶太郎は希太へ顔を近づけた。
「もう一回、言って」
「にゃ」
今度は普通の鳴き声だった。
「聞き間違いかな……」
茶太郎が考えていると、隣にいた茶丸が、金色の瞳で希太を見つめた。
『同じか』
また、短い声が胸へ届いた。
茶太郎は茶丸を見た。
「茶丸も?」
「にゃう」
それ以上の言葉は聞こえない。
けれど、二匹がただの猫ではないことだけは分かった。
茶丸は自分を。
希太は縁を。
それぞれ、大切な誰かを守ろうとしている。
茶太郎は縁の手を取った。
「ゆかり。僕も、ゆかりを守るよ」
「茶太郎が?」
「うん。黒い糸がまた来ても、茶丸と希太と一緒に助ける」
「怖くないの?」
茶太郎は少し考えた。
「怖いと思う。でも、ゆかりが泣いてるのに、知らんふりはできないよ」
雨の夜に、黒猫を置いて帰れなかったときと同じだった。
困っている誰かを見つけると、頭で考えるより先に体が動いてしまう。
縁は驚いたように目を瞬かせた。
やがて、その小さな手で、茶太郎の手を握り返す。
「ありがとう、茶太郎」
二人の手の間に、淡い桃色の光が生まれた。
茶太郎には、温かな味として伝わった。
縁には、一本の糸として見えていた。
「茶太郎とわたしの間に、新しい糸ができた」
「どんな糸?」
「温かくて、優しい色」
希太は縁の足元へ座り、尻尾の先をその足へ触れさせた。
茶丸も茶太郎の隣へ進み、静かに寄り添う。
縁の瞳には、三つの結び目が映っていた。
茶太郎と茶丸をつなぐ、金色の糸。
縁と希太をつなぐ、銀色を帯びた桃色の糸。
そして今、茶太郎と縁の間に生まれた、若草色の糸。
三本の糸は互いを避けることなく、組紐のようにゆっくりと重なり合った。
「きれい……」
縁が呟く。
一本では細く、簡単に切れてしまう糸も、誰かと結び合えば強い紐になる。
茶太郎には糸そのものは見えなかった。
それでも、縁や二匹とつながった温かさを、胸の奥で確かに感じていた。
茶太郎と縁は顔を見合わせ、同時に笑った。
その瞬間。
縁の笑顔が、ふいに消えた。
「……待って」
「どうしたの?」
縁は、三つの温かな糸の下を見つめていた。
店の床を通り抜け、地の底へ沈んでいく暗いものが見える。
一本ではない。
四本の黒い糸だった。
一本は、茶畑の土の奥へ。
一本は、宇治川の流れへ。
一本は、南に広がる大きな池へ。
そして最後の一本は、獣たちが暮らす山の方角へ伸びている。
「ゆかり?」
「暗い糸がある」
縁の声が震えた。
「四本も……。さっきまでは、もっと薄かったのに」
茶太郎が縁の見つめる先へ目を凝らす。
糸は見えない。
けれど舌の奥には、あの墨を溶かしたような苦みが広がり始めていた。
茶丸が低く唸る。
希太も縁の前へ出て、暗い糸から隠すように身を構えた。
温かな三つの縁が結ばれたことで、それまで隠れていた四つの濁りもまた、二人の前へ姿を現したのだ。
縁は茶太郎の手を強く握った。
「茶太郎。この糸……泣いてる」
「怖い糸やないの?」
「怖い。でも、怒ってるだけやない」
縁は暗い糸の色を見つめた。
「ずっと誰にも見つけてもらえへんかったみたいに、寂しい色をしてる」
その言葉を聞き、茶太郎は胸へ手を当てた。
茶丸の料理を作ったときに感じた、冷たく寂しい味。
あれと同じものが、宇治の四つの場所から流れてきている。
「ほな、見つけにいかなきゃ」
「四つとも?」
「うん。何が悲しいのか、聞いてあげたい」
茶太郎がそう答えると、茶丸と希太の耳が同時に動いた。
この日、三つの縁が初めて結び合った。
茶太郎と茶丸。
縁と希太。
そして、茶太郎と縁。
それはまだ細く、小さな糸にすぎない。
けれど、その結び目から、宇治に眠る四つの乱れを巡る物語が、静かに動き始めていた。
三つの温かな縁の下に現れた、四本の暗い糸。
次回、茶畑の秘密基地で、宇治を守る古い神と出会います。




