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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第一章 ~三歳の茶太郎、宇治を巡る~
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第3話 「茶太郎、茶丸を看病し“初めての料理”を作る」

 ――獣王に名を与えた日――


「母ちゃん! 猫さんが大変なんや!」


 茶太郎の声を聞き、志乃が店の奥から飛び出してきた。

 茶太郎の腕には、手拭いに包まれた一匹の黒猫。

 かん太とこたろも、息を切らしながら後ろに続いていた。


「まぁ……えらい弱っとるやないの」


 志乃はすぐに黒猫の顔をのぞき込んだ。


 毛は湿り、細い体から温かさが失われている。呼吸も浅く、目を開ける力さえほとんど残っていなかった。


「茶太郎、この子、茶畑で見つけたん?」


「お地蔵さんのところに倒れてた。母ちゃん、助けて」


 騒ぎを聞きつけた父の宗次も、店の奥からやってきた。

 黒猫の鼻先と呼吸を確かめると、すぐに板の間へ小さな布団を用意する。


「息はある。まず体を温めよう。志乃、ぬるめの湯を頼む」


「分かったわ。茶太郎、その子をここへ寝かせてあげて」


 茶太郎はうなずき、黒猫を布団の上へそっと下ろした。

 志乃は乾いた布で濡れた毛を拭い、湯で温めた別の布を腹の近くへ置いた。


「猫さん、まだ冷たいよ……」


 こたろが心配そうに見つめている。


「急に熱うしたら、かえって体が驚いてしまう。ゆっくり温めるんや」


 かん太はそう教えたが、その表情には不安が残っていた。

 茶太郎は黒猫のそばへ座り、背中へそっと手を置いた。


 舌の奥に、いくつもの味が広がってくる。

 空っぽの腹が訴える、乾いた味。

 冷え切った体から伝わる、薄い苦み。

 長いあいだ独りで歩き続けた、寂しい味。

 そして前足の泥から伝わってくる、墨を溶かしたような冷たさ。


 茶太郎は眉を寄せた。

 やはり、この苦みだけは黒猫のものではない。

 茶畑の地蔵の前で感じた、土の苦みと同じものだった。


「……お腹、すいてるんだ」


 茶太郎の言葉に、志乃が振り返った。


「分かるん?」


「うん。何か食べたいって、味がする」


「味がする?」


 志乃と宗次は顔を見合わせた。

 二人には、茶太郎の言葉の意味までは分からない。

 それでも、三歳の子どもが思いつきで話しているようには見えなかった。


 黒猫の腹が、小さく鳴った。

 あまりにも弱い音だった。


「なんか作らなきゃ」


「作るって、茶太郎が?」


「うん。僕が作る」


 宗次はしばらく茶太郎の顔を見つめていた。

 三歳の子どもに料理を任せることはできない。

 けれど、その目に宿った真剣さを無下にすることもできなかった。


「よし。火と刃物は父ちゃんが扱う。茶太郎は、父ちゃんのそばを離れんこと。それでええな?」


「うん」


「弱っとる猫に、味の濃いものはあかん。固いものも食べられへんやろ。何を使う?」


 茶太郎は台所を見回した。


 米。

 干した野菜。

 店に並べる茶葉。

 そして、今朝届いた小さな川魚。


 魚へ目を向けた瞬間、舌に広がっていた乾いた味が、ほんの少し和らいだ。


「お魚」


「それなら、口にできるかもしれへんな」


「それと……茶葉も使いたい」


 宗次が眉を上げた。


「猫に茶を飲ませるんか?」


 茶太郎は首を横に振った。


「飲ませないよ。香りだけ」


「香りを?」


「この子の寂しい味が、少しだけ温かくなる気がするの」


 宗次には理解できなかった。


 それでも否定はせず、店に並べる前の柔らかな茶葉を数枚、茶太郎へ渡した。


「口には入れんようにな」


「うん」


 宗次は川魚を手早くさばき、骨と内臓を取り除いた。

 身を水へ入れ、土鍋でゆっくり煮ていく。

 強く煮立てない。

 弱った黒猫が口にできるよう、魚の身が崩れるまで静かに火を通す。


 茶太郎は宗次に教わりながら、茶葉を小さな指で優しく揉んだ。


「茶太郎、それ……茶揉みしてるんか?」


 かん太が驚いて身を乗り出す。


「すごいよ〜! ぼくより上手だよ〜!」


「こたろは茶揉みしたことないやろ」


「でも、すごいのは分かるよ〜!」


 こたろの言葉に、張り詰めていた部屋の空気が少しだけ緩んだ。

 茶太郎が葉を揉むたび、青く爽やかな香りが広がっていく。

 揉み終えた茶葉は鍋へ入れず、小さな皿に載せて、かまどから少し離れた場所へ置いた。

 鍋から昇る温かな湯気が、茶葉の香りを部屋の中へ運んでいく。


「なんやろ……この香り」


 志乃が静かに胸へ手を当てた。


「さっきまで心配で息が詰まりそうやったのに、少し落ち着いてきたわ」


「いつもの茶葉と違うな」


 宗次も不思議そうに香りを吸い込んだ。

 茶太郎の指先から、淡い光がにじんでいた。

 光は茶葉へ宿り、湯気に溶け、部屋を柔らかく包んでいく。


 けれど、茶太郎自身は気づいていない。

 ただ黒猫が安心できるようにと願いながら、懸命に手を動かしていた。


 やがて川魚の身が柔らかくほどけた。

 宗次は残っていた細かな骨まで丁寧に確かめ、魚の身をすり潰して煮汁と合わせた。


「茶太郎、混ぜてみるか?」


「うん」


 茶太郎は小さな匙を両手で握った。

 土鍋の中を、ゆっくり、ゆっくりとかき混ぜる。


「熱すぎたら、猫さんが飲めないよね」


「せやな。少し冷まして、人肌くらいにしよう」


 茶太郎が匙を動かすたび、料理の味が舌ではなく、胸の内へ伝わってきた。


 魚の命が持つ温かさ。

 清らかな水。

 宗次が骨を取り除いた手間。

 志乃が黒猫を包んだ布の温もり。

 心配そうに見守る、かん太とこたろの気持ち。


 いくつもの思いが、土鍋の中で一つになっていく。


「元気になって」


 茶太郎が小さく願った。


「もう独りやないから」


 その瞬間、胸の奥に宿っていた熱が、両手から匙へ伝わった。


 白いすり流しの表面に、淡い金色の光が揺れる。

 湯気に混じった茶葉の香りも、先ほどより甘く、優しいものへ変わった。


 宗次も志乃も、言葉を失っていた。

 茶太郎には見えていない。


 しかし二人には、土鍋の中へ夕日の欠片が落ちたように見えた。


 料理が人肌まで冷めると、茶太郎は小さな椀へ移した。


 黒猫の前に置き、そのそばへ座る。


「飲んで。きっと、温かくなるから」


 黒猫は動かなかった。


「茶太郎……」


 志乃が声をかけようとする。

 茶太郎は振り返らず、黒猫のそばで待ち続けた。


「大丈夫。急がなくてもいいよ」


 食べろとは言わない。

 無理に口元へ運ぶこともしない。

 温かな椀を置き、黒猫が自分から顔を上げるのを待った。


 やがて黒猫の鼻が、わずかに動いた。


 川魚の匂い。

 その奥に漂う、どこか懐かしい茶葉の香り。

 金色の瞳が薄く開き、椀と茶太郎を交互に見つめた。


 黒猫の目には、三歳の幼子とは異なる姿が映っていた。

 冷たい雨の中、自分を抱き上げてくれた青年。

 命が消える最後の瞬間まで、自分の無事を喜んでくれた人。


 ――今度は、温かな料理を置いて待っている。

 黒猫は震える前足を立て、ゆっくりと体を起こした。


 椀の縁へ、顔を近づける。

 ぺろり。

 黒猫の舌が、すり流しをひと口だけ舐めた。

 温かな煮汁が、冷えた喉を通っていく。


 もうひと口。

 そして、もうひと口。


「飲んだよ〜!」


 こたろが声を上げた。


「こたろ、静かにせな猫が驚くで」


 注意するかん太の顔にも、安堵の笑みが浮かんでいる。

 黒猫は休みながら、少しずつすり流しを口にした。

 荒く浅かった呼吸が、次第に穏やかになっていく。


 茶太郎の舌に広がっていた空腹の乾いた味も、孤独の寂しい味も、柔らかな甘さへ変わり始めた。


 黒猫の体から、煤に似た黒い靄が浮かび上がった。

 それは茶葉の香りをまとった湯気に触れると、細い糸になってほどけていく。


「父ちゃん……見える?」


「ああ」


 宗次は目を見開いたまま、うなずいた。


「何か黒いもんが、消えていく……」


 けれど、すべてではなかった。

 黒猫の前足には、墨のような苦みがわずかに残っている。

 土から入り込んだ冷たさは薄くなったものの、その根までは消えていなかった。


 茶太郎はそのことに気づいたが、今は口にしなかった。

 目の前の黒猫が、ようやく安心して息をしている。

 それだけで、胸がいっぱいだった。


 黒猫は椀から顔を上げると、茶太郎の膝へ頭を載せた。

 金色の瞳が、じっと茶太郎を見つめている。

 その奥には、遠い記憶を確かめるような光があった。


「君にも、名前がいるね」


「茶太郎がつけるん?」


 志乃が尋ねる。


 茶太郎は黒猫の背を撫でながら、窓の向こうに広がる茶畑を見た。

 この子とは、雨の夜に出会った。

 そして今度は、茶畑で再び巡り会った。


 自分の名は、茶太郎。

 これからも、同じ茶の香りの中で暮らしていきたい。


「……茶丸」


 黒猫の耳が、ぴくりと動いた。


「この子の名前、茶丸にする」


「茶丸か。茶畑で巡り会うた子らしい、ええ名前やねぇ」


 志乃が微笑む。


「黒猫に茶丸。不思議としっくりくるな」


 宗次も満足そうにうなずいた。


「なんや、強そうな名前やな。茶丸様や」


「茶丸〜! 早く元気になってね〜!」


 こたろが呼びかけると、茶丸は尻尾を一度だけ動かした。

 まるで、その名を受け入れたと答えるように。


「茶丸。今度は、僕が守るからね」


 茶太郎が囁く。


 茶丸はしばらく茶太郎を見つめていたが、やがて安心したように目を閉じた。

 その体の奥で、消えかけていた金色の霊気が、小さな灯のようにともり始める。


 茶太郎が作った、まだ名もない最初の一椀。

 それは黒猫のすべてを癒やしたわけではない。


 土から入り込んだ冷たい苦みも、その苦みを生んだ原因も、まだ残されている。

 それでも。

 空腹を満たし、冷えた体を温め、独りだった心へ戻る場所を作った。


 迷った者を無理に引き戻すのではなく、自分で顔を上げられるまで、温かな一椀を置いて待つ。

 それが《心ほどきの料理》の、最初の形だった。


 ◇


 開け放たれた戸口から、茶葉をまとった湯気が外へ流れていく。

 香りは店先を越え、風に運ばれ、茶畑の小道まで届いた。


 その道を、一人の幼い少女が歩いていた。

 少女は突然足を止めると、何もない空中を見つめた。


「……糸?」


 茶太郎の家へ向かって、淡い金色の糸が伸びている。

 その下には、地の底へ沈む四本の暗い糸も見えた。


 少女の足元では、少し不格好な顔をした三毛猫が、警戒するように毛を逆立てている。


 温かな糸と、泣いているような暗い糸。

 二つの縁に導かれ、少女と三毛猫もまた、茶太郎の物語へ近づこうとしていた。


【本日の一椀】

川魚を柔らかく煮た、茶丸のためのすり流し。茶葉は口に入れず、香りだけを添えています。


次回、縁と三毛猫の希太が、茶太郎の家を訪れます。


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『茶太郎がゆく』
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