第2話 「茶畑の子らと、弱った黒猫」
――三歳の茶太郎が、運命の再会を果たす日――
「茶太郎、畑の奥へ行くなら、兄ちゃんと手ぇつながなあかんで」
かん太が、大きな手を差し出した。
父・宗次の店を手伝っている、力持ちの青年である。
真面目で面倒見がよく、茶太郎にとっては、血のつながらない兄のような存在だった。
「茶太郎〜! 今日も遊ぼ〜!」
その隣から、こたろが駆けてくる。
かん太の従弟で、茶太郎と同じ三歳。
明るく元気だが、少しばかり足元がおぼつかない。
「ぼく、今日は転ばないよ〜!」
「こたろ、毎日そう言ってるよ」
「今日は違うもん!」
言い終わった途端、こたろの足が小石に引っかかった。
「わっ――」
ぽすん、と柔らかな土の上に尻もちをつく。
「ほら、言うたやろ!」
かん太が慌てて駆け寄ると、茶太郎は思わず小さく笑った。
「こたろ、今日も転んだね」
「いまのは、石が悪いんだよ〜!」
こたろは土を払いながら立ち上がり、何事もなかったように笑った。
茶太郎は、そんな二人と過ごす時間が好きだった。
かん太は、頼りになる兄のような存在。
こたろは、一緒に笑って遊べる大切な友達。
三人で茶畑を歩いていると、胸の奥が自然と温かくなった。
その日も、いつものように茶畑の間を進んでいた。
夏の光を受けた茶葉が、風に合わせて一斉に揺れている。
若葉の青い香りと、日に温められた土の匂い。
足元では、小さな虫が葉の陰へ潜り込んでいった。
ところが、茶太郎はふいに足を止めた。
「……まただ」
昨日、店先で感じたものと同じだった。
舌の奥へ広がる、ほのかに温かい味。
誰かがこちらを呼んでいるような、どこか懐かしい気配。
けれど今日は、その奥に冷たい苦みが混じっていた。
「茶太郎、どうしたんや?」
かん太が振り返る。
「あっちに、誰かいる」
「誰か?」
「分からない。でも、呼んでる」
茶太郎は、茶葉の重なる細い道へ目を向けた。
風は明るい空へ向かって吹いている。
それなのに、畑の奥から流れてくる空気だけが、雨水のように冷たかった。
「待ちぃ。勝手に行ったら危ないで」
かん太は茶太郎の手を握ると、自分が先に立った。
「ぼくも行く〜!」
こたろも、今度は転ばないよう両手を広げながらついてくる。
三人が奥へ進むにつれて、辺りを薄い霧が覆い始めた。
「こんな暑い日に、霧……?」
かん太が眉をひそめる。
葉擦れの音が、急によそよそしくなった。
鳥の声も聞こえない。
茶太郎の舌に広がる苦みは、一歩進むたびに強くなっていった。
「近い……」
やがて三人は、古びた地蔵の前へ出た。
長いあいだ誰にも手入れされていないのか、地蔵の肩には苔が積もり、足元は伸びた草に覆われていた。
「ここだ」
地蔵の陰に、黒いものが横たわっている。
「……猫さん?」
一匹の黒猫だった。
雨に濡れたように黒い毛が張り付き、細い体を小さく丸めている。
呼吸は浅く、腹がかすかに上下しているだけだった。
茶太郎は、吸い寄せられるように近づいた。
「茶太郎、待ちぃ」
かん太の声も、今は遠くに聞こえた。
黒猫がゆっくりと目を開ける。
淡い金色の瞳が、まっすぐ茶太郎を見つめた。
その瞬間。
胸の奥に残っていた遠い記憶が、雨音とともによみがえった。
冷たい夜。
腕の中に抱いた、小さな命。
助かってほしいと願いながら見つめた、金色の瞳。
「……君だったんだ」
茶太郎の目に、涙が浮かんだ。
理由をうまく言葉にはできなかった。
前の世の記憶は、もう夢のように遠い。
それでも、この瞳だけは忘れていなかった。
「また、会えたね」
黒猫の尻尾が、地面の上でほんの少しだけ動いた。
その金色の瞳から、張り詰めていたものが、わずかにほどけたように見えた。
「茶太郎、あんまり近づいたらあかん」
かん太が茶太郎の肩へ手を伸ばした。
「その猫、かなり弱っとる。苦しくて噛むかもしれへんで」
「でも、助けなきゃ」
こたろも少し離れたところへしゃがみ込んだ。
「猫さん、苦しそうだよ〜」
茶太郎は怖がらせないよう、ゆっくりと手を差し出した。
「触ってもいい?」
黒猫は逃げなかった。
茶太郎の指先が、その額へ触れる。
冷たい。
雨に濡れて冷えただけではない。
体の奥にまで、冬の川底のような冷たさが入り込んでいた。
同時に、茶太郎の舌へいくつもの味が流れ込んできた。
空腹の、乾いた味。
独りで歩き続けた、寂しい味。
ようやく会えたという、ほのかな甘み。
そして、そのすべてに絡みつく、墨のような苦み。
「これ……猫さんの味だけやない」
「味?」
かん太が聞き返した。
茶太郎は黒猫の前足を見た。
肉球の周りに付いた泥から、目には見えない冷たさが伝わってくる。
黒猫が歩いてきた先。
地蔵の裏へ続く地面にも、同じ苦みが細い筋となって残っていた。
「土まで、苦い……」
「土が苦いって、どういうことや?」
「分からない」
茶太郎にも、まだ説明できなかった。
ただ、この黒猫は空腹や疲れだけで倒れたのではない。
もっと深く、冷たい何かに触れてしまったのだ。
茶太郎は、もう一度黒猫を見つめた。
「大丈夫だよ」
小さな声で語りかける。
「今度も、僕が助けるから」
助けたいと強く願ったとき、茶太郎の胸が温かくなった。
その温もりは腕を通り、黒猫へ触れている指先まで流れていく。
淡い光が一瞬だけにじんだ。
けれど、黒猫の体を包んでいた冷たさは消えなかった。
「どうして……?」
茶太郎は何度も願った。
温かくなって。
元気になって。
それでも、黒猫の呼吸は浅いままだった。
願うだけでは、この子を救えない。
そのことが、三歳の茶太郎にも分かった。
かん太が自分の手拭いを外し、黒猫の体をそっと包んだ。
「まず家へ連れて帰ろ。ここにおったら、もっと冷えてまう」
「うん」
茶太郎は、手拭いに包まれた黒猫を慎重に抱き上げた。
細い。
あまりにも軽かった。
雨の夜に抱いたときと同じ、小さな命の重さだった。
「茶太郎、その猫、何か食べられるかな?」
こたろが心配そうにのぞき込む。
その言葉を聞いた瞬間、茶太郎の胸に小さな灯がともった。
前の世でも、誰かが疲れて帰ってきたとき。
悲しいことがあったとき。
温かい料理を食べれば、ほんの少しだけ表情が和らいだ。
「作る」
「何をや?」
かん太が尋ねる。
茶太郎は腕の中の黒猫を見つめた。
空腹の乾いた味。
体を蝕む冷たい苦み。
そして、その奥に残っている、消えそうで消えない命の温かさ。
「この子が食べられる、温かいもの」
何を作ればよいのかは、まだ分からない。
けれど、自分の中には料理の記憶がある。
そして、この子が必要としているものを“味”として感じることができる。
「僕が作って、元気にする」
茶太郎は黒猫を抱き、かん太、こたろとともに茶畑を引き返した。
その背後。
誰もいなくなった地蔵の足元で、土に染み込んだ黒い筋が、虫のようにわずかに動いた。
苔むした地蔵の頬を、朝露に似た一滴が流れ落ちる。
人の目には見えない地の底で、何かが苦しそうに身じろぎしていた。
◇
茶太郎の腕の中で、黒猫は薄く目を開けた。
時代も姿も変わっている。
それでも、その声と温もりを間違えるはずはなかった。
『……やっと、見つけた』
その声は、まだ茶太郎には届かない。
黒猫は安心したように目を閉じ、茶太郎の胸へ小さく顔を寄せた。
茶太郎が初めて作る“心をほどく料理”まで、あと少し。
運命の再会は、宇治に生まれた最初の濁りと、静かにつながり始めていた。
願うだけでは救えなかった小さな命。
次回、三歳の茶太郎が初めて料理を作ります。
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