第1話 「前世の終わりと、転生の始まり」
――料理好きで猫好きの青年が、宇治へ降りるまで――
猫好きには、一つだけ困ることがある。
道ばたで猫を見つけると、
どうしても、そのまま帰れない。
寝ていれば、息をしているか気になる。
雨が降れば、濡れていないか心配になる。
痩せていれば、ご飯は食べたのかと考えてしまう。
車道へ近づけば、心臓が勝手に速くなる。
――今日は疲れてる。
――今日は急いで帰りたい。
そんな日に限って。
猫は現れる。
その夜も、そうだった。
仕事帰り。
午後十時を回った商店街。
冷たい雨が、街灯の明かりをぼんやりと滲ませていた。
コンビニの袋をぶら下げた俺は、小さな鳴き声に足を止めた。
「……みゃあ」
聞こえないふりもできた。
きっと誰かが助けてくれる。
そう思おうとした。
でも。
猫好きは、その「誰か」になってしまう。
植え込みの隅。
まだ生まれて半年ほどだろうか。
黒猫が一匹、小さく丸くなって震えていた。
耳は雨でぺたりと伏せられ、
尻尾は細い体へ巻き付いている。
逃げようとしない。
いや。
逃げる力も残っていない。
俺は思わず、ため息をついた。
「……今日だけは勘弁してくれよ」
そう言ったときには、
もう傘は猫の上へ傾いていた。
頭と体は、案外別の生き物らしい。
帰ろうと思う頭より、
助けようとする体のほうが、
いつも少しだけ早い。
猫好きなんて、
きっとみんなそうだ。
俺はしゃがみ込み、
濡れた小さな頭へ、そっと手を伸ばす。
黒猫は逃げなかった。
まるで、
最初から俺を待っていたように。
その瞬間――。
背後で、甲高いブレーキ音が夜を裂いた。
世界が白く弾ける。
誰かの叫び声。
舞い上がる雨粒。
遠ざかる意識。
最後に見えたのは、
腕の中で必死に鳴く黒猫の金色の瞳だった。
「……よかった」
助かった。
そう思った。
その安心だけを胸に、
俺の人生は静かに幕を閉じた。
◇
だけど。
あれは、終わりではなかった。
あの一匹の黒猫は、
俺の人生を終わらせた猫ではない。
もう一度、生きる理由を連れてきた猫だった。
◇
気がつくと、正は真っ白な空間に立っていた。
風も音もない。
どこまでも静かで、それなのに不思議と懐かしい。
やがて柔らかな光が正の前へ集まり、人の姿を形作った。
「目覚めましたね」
光の中から現れた神は、穏やかな声で告げた。
「あなたは、あの猫を救うために命を落としました。そのとき、あなたの魂は強く輝いたのです」
正は自分の両手を見つめた。
痛みはない。
雨に濡れた感覚も、もう残っていなかった。
「……僕は、死んだんですね」
「ええ。ですが、あなたの魂は、まだ終わるべきではありません」
神が手をかざすと、光の中に一匹の黒猫が現れた。
あの猫だった。
黒猫は正の足元まで歩み寄ると、甘えるように体を擦りつけた。
正はしゃがみ込み、今度は濡れていない背を、何度も優しく撫でた。
「この子は、助かったんですか?」
「ええ。あなたが守った命は、無事につながりました」
正は大きく息を吐いた。
死んでしまったことよりも、その答えを聞けたことのほうが、今はずっと大切だった。
「そして、この子もまた、あなたを呼んだのです。あなたが結んだ縁に、この子の魂が応えました」
「また、会えますか?」
「姿は少し変わるかもしれません。それでも、いずれあなたのそばへ現れるでしょう」
黒猫が正を見上げる。
その金色の瞳が、淡く光った。
『今度は、われがおぬしを見つける』
「……え?」
確かに声が聞こえた。
けれど問い返すより早く、黒猫の姿は光の粒となって、正の胸へ吸い込まれていった。
そこには、雨の夜にはなかった温かさが残った。
神はそんな正を見つめながら、静かに問いかけた。
「あなたは料理が好きでしたね」
「はい。食べた人が喜んでくれるのが、好きでした」
「なぜ、料理を作るのですか?」
不意の問いに、正は少し考えた。
「お腹がいっぱいになると、少し安心できるからです。それに、温かいものを食べているあいだは、つらいことを忘れられる人もいるから」
神は満足そうに目を細めた。
「あなたの料理には、人の心をほどく力があります。それは、技術だけでは得られない、あなた自身の天性です」
神の指先からこぼれた光が、正の胸へ触れた。
「あなたには、宇治という地へ転生してもらいます。霊が集い、自然が語り、数多くの縁が流れる場所です」
「宇治……」
「ですが今、その地を流れる水と、命を育てる土に、小さな濁りが生まれ始めています」
白い空間に、ひと筋の川が浮かび上がった。
山から流れ出した清らかな水が、里を巡り、大きな流れとなっていく。
ところが、その川底には、墨を落としたような黒い筋が沈んでいた。
「その濁りは、やがて人の心や、霊の在り方をも変えてしまうかもしれません」
「僕に、それを止めろということですか?」
「いいえ」
神は静かに首を振った。
「強い力で、誰かを従わせる必要はありません。まずは、その声を聞いてあげてください。怒りの下に隠れた、悲しみや寂しさを」
正の脳裏に、雨の中で震えていた黒猫の姿が浮かんだ。
「そして、温かなものを必要としているなら、一椀の料理を置いてあげるのです」
神の指先から放たれた光が、正の胸へ宿った。
「あなたに授ける一つ目の力は、《心ほどきの料理》。心を癒やし、縁を結び、荒ぶる霊さえ鎮める料理の才です」
続いて、別の光が正の舌と両手へ溶けていく。
「二つ目は《霊性味覚》。普通の人には分からない霊の気配を、“味”として感じ取る力です」
胸の奥に、知らない温かさが灯った。
甘くも苦くもない。
けれど、どこか懐かしい味がした。
「そして、あなたには《成長の権能》を授けます」
「成長する力……?」
「料理を学び、人を助け、霊と心を通わせる。その経験に応じて、新しい力が芽生えます。何を得るかは、あなたの行いが決めるでしょう」
正の前に、水や土、炎や香りを思わせる光が浮かんだ。
それらはまだ名前を持たないまま、水面の波紋のように揺れ、ゆっくりと消えていった。
正は、先ほどまで腕の中にいた黒猫を思い出した。
自分の料理が、人だけでなく、傷ついた何かを救えるのなら――。
「僕の料理が誰かの役に立つなら、やってみたいです」
「その心こそが、あなたの最大の力です」
白い空間が、次第にまばゆい光で満たされていく。
「行きなさい。宇治の物語が、あなたを待っています」
光は温かく、正の心まで優しくほどいていった。
「……ありがとう」
「また会いましょう。あなたの料理が、これから多くの心を救うことを願っています」
正は静かに目を閉じた。
意識が深い水の底へ沈むように、新たな世界へ落ちていく。
その途中。
あの黒猫の声が、もう一度だけ聞こえた。
『必ず、見つける』
◇
次に目を開けたとき、正は三歳の子どもになっていた。
新しい名は、茶太郎。
生まれ育ったのは、戦国の世の宇治。
茶葉を仕入れて売りながら、小さな茶畑を営む夫婦の息子だった。
「茶太郎、店の前で走り回ったら危ないで」
父の宗次が、茶箱を運びながら声をかける。
「この子は、ほんまに元気やねぇ。茶畑の子やからかねぇ」
母の志乃が笑った。
三歳になった茶太郎は、話すことも歩くこともできた。
茶葉を拾い集める程度なら、畑の手伝いもできる。
前の人生の記憶は、夢のように遠くなりつつあった。
それでも、料理を作ることが好きだった気持ちと、雨の夜に抱き上げた黒猫の金色の瞳だけは、決して消えなかった。
その日、茶太郎は店先で、ふと足を止めた。
風に乗って、若い茶葉の青い香りが流れてくる。
湿った土の匂い。
日に温められた木箱の匂い。
家の奥では、志乃が昼餉の支度をする音がしていた。
けれど、その中に一つだけ、これまで感じたことのない気配が混じっていた。
舌の奥へ、ほのかな温かさが広がる。
「……なんか、あったかい味がする」
志乃が不思議そうに振り返った。
「味? 茶太郎、お腹すいたんか?」
「違う。あっちから、なんか呼んでる」
茶太郎は茶畑の奥を見つめた。
風に揺れる葉の向こうで、何かが一瞬だけ光った気がした。
金色の、小さな光。
同時に、温かな味の底へ、冷たい苦みが混じった。
「……にがい」
茶太郎が眉を寄せた瞬間、足元の土が、かすかに震えた。
遠くを流れる宇治川で、水鳥たちが一斉に飛び立つ。
山の獣たちは声を潜め、川底に沈んだ黒い濁りが、細い糸のようにゆっくりと動き始めた。
茶太郎には、まだ分からない。
温かな味が、霊の呼ぶ声であることも。
その奥に混じった苦みが、宇治の水と土に生まれた濁りであることも。
そして、茶畑の奥。
伸びた草に隠れるようにして、一匹の黒猫が倒れていることも。
細い体を丸めた黒猫は、残された力を振り絞るように、金色の目を開いた。
『……見つけたぞ』
その声は、まだ茶太郎には届かない。
けれど二つの命を結んだ縁は、時代も世界も越えて、再び触れ合おうとしていた。
それが、茶太郎と黒猫――。
そして宇治に眠る、人と霊の物語の始まりだった。
次回、茶畑の奥で茶太郎は、金色の瞳を持つ黒猫と再会します。




