第40話 「蒼鷺の遠見と、数えられなかった避難者」
――空から見えた五つ目の足跡――
夕暮れの空を、一羽の蒼鷺が旋回していた。
青灰色の翼は煙に紛れ、羽音ひとつ立てない。
「山へ入った子どもは五人。戻ったのは四人——」
金色の瞳が細くなる。
「もう一人、沢の上流へ向かっている」
その声を聞いたミカエが、ぴんと耳を立てた。
「蒼! 見えておったのなら、なぜ早く言わぬ!」
蒼鷺は川原へ降り立つと、青灰色の髪を持つ少年の姿へ変わった。
「煙が濃かったんだ。遠見は、壁の向こうまで見える力じゃない」
年の頃は十二ほど。涼しげな顔をしているが、少し得意そうに胸を張っている。
「それに、僕は四人が無事に戻るまで上空を離れられなかった」
ミカエは言葉に詰まり、そっぽを向いた。
「……それなら仕方ない」
茶太郎が蒼を見上げる。
「もう一人の子、どこにいるの?」
「沢の上流。ただし木立に入って見失った。空から探すより、地上の者と組んだ方が早い」
弥七が泥のついた足跡を確かめた。
「小さい裸足や。左足を引きずっとる」
ユキは炭焼き小屋に残された麻袋を見つけた。
中には米粒が数粒と、薬包を結んでいたらしい紙紐が落ちている。
「この子、逃げたんやない。何かを運んでる」
茶太郎たちは再び沢へ入った。
蒼は上空から先行し、ときどき木の枝へ降りて進路を示す。煙や枝葉で視界を遮られると、無理に飛ばず、弥七の足跡読みを待った。
「空から何でも分かるんじゃないんだね」
茶太郎が言うと、蒼は少し不満そうに嘴のように唇を尖らせた。
「見えぬものを、見えるとは言わない。それが偵察の決まりだ」
しばらく進むと、ユキが沢音の中に小さな咳を聞き取った。
「右の藪!」
藪の奥には、苔むした岩穴があった。
その前で、六歳ほどの少年が米袋を抱えて震えている。
「来るな!」
少年は石を握った。
「この米は返さへん! 姉ちゃんに食べさせるんや!」
茶太郎は立ち止まり、同じ目の高さまでしゃがんだ。
「取らないよ。お姉ちゃんは、どこ?」
「……奥」
岩穴には、十歳ほどの少女が横たわっていた。額は熱く、足には浅い切り傷がある。
兄妹は洛中から逃れてきたが、仮小屋へ入れなかったという。
「人数を聞かれたから……母ちゃんも父ちゃんもおらんって言うたら、追い出されると思って……」
少年は唇を噛んだ。
「せやから、誰にも言わんかった」
茶太郎の胸に、渋く冷たい味が満ちる。
食べ物が足りないのではない。
助けを求める声が、数の外へ落ちていたのだ。
山科言継が少女を診た。
「傷を洗い、熱を確かめる。すぐに重湯を飲ませてはならぬ。まず水を少しずつだ」
弥七が薬包を開き、ユキが少女の汗を拭う。
茶太郎は文福茶釜の神水ではなく、沸かして冷ました水を差し出した。
少女が飲めることを確認してから、柔らかい葛湯を少量作る。
「これは薬じゃないよ。でも、飲めそうなら力になるから」
少年は茶太郎の袖を掴んだ。
「……ぼくらも、帰ってええの?」
ミカエが胸を張る。
「帰る場所がなければ、まず休める場所へ帰る。それでよい」
蒼は岩穴の外へ出ると、大きな翼を広げた。
金色の瞳が、沢筋と山裾をゆっくり見渡す。
「ここだけじゃない」
対岸の藪、壊れた水車小屋、放棄された茶小屋。
煙が薄れたことで、小さな生活の跡が見え始めていた。
「濡れた布が三枚。焚き火の煙が二筋。人が隠れている場所は、少なくともあと四か所ある」
弥七の顔が険しくなる。
「炊き出しの百人だけ数えても足りんいうことか」
ユキは、裂かれた密書の代わりに新しい紙を取り出した。
「道や蔵の場所やない。必要な米、薬、寝床の数を書く」
「誰に送る?」
弥七の問いに、ユキは答えた。
「助ける気のある者、全員にや」
その夜、蒼の遠見と弥七の足跡読み、ユキの聞き込みによって、名簿にない二十七人の避難者が見つかった。
森彦右衛門は報告を聞き、黙って帳面を閉じた。
「人を救うには、まず正しく数えねばならん。じゃが——」
ひこじいは茶太郎を見る。
「数に入らぬ者を見つける目も、同じほど要る」
蒼は宇治川で焼かれた鮎を一尾受け取り、満足そうに頷いた。
「悪くない働きだっただろう?」
「うん。蒼のおかげだよ。ありがとう」
蒼は澄ました顔で鮎をくわえたが、羽の先が嬉しそうに揺れていた。
その上空で——
南から来た一羽の緑色の鳩が、疲れ切った翼を震わせていた。
脚には、海辺の塩で白くなった小さな文が結ばれていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
人を助けるには、食料や薬の数だけでなく、助けを必要としている人そのものを正しく数えなければなりません。
声を上げられない者。名簿に載らない者。迷惑をかけまいと隠れている者。蒼の遠見は、そのような「数の外」にいる人々を見つけました。
大切なのは、見つけた人数を責める材料にせず、必要な米、薬、寝床へ結び直すことです。
次回は南から来たアオバト・シオ。止まった塩舟を通じ、宇治と海の物流がつながります。




