第39話 「見返り兎と、帰れない子どもたち」
――失われた帰り道に、白い兎が振り返る――
濡れた銀髪から、黒い染め汁が滴っていた。
日置雪は、山中弥七の懐を見つめている。
「その文……六角方へ送るんやろ?」
弥七の手が止まった。
「見たんか」
「封は見てへん。ただ、結び方を知ってるだけ」
ユキは笑っていたが、碧い瞳は鋭かった。
「避難してきた人の数と、宇治の道を書いた。違う?」
弥七は答えず、懐を押さえた。
そのとき、平等院の仮小屋から悲鳴が上がった。
「お千代がおらん! 弟の吉松も!」
母親が、焼け焦げた草履を握っていた。
「火が出たときまで、ここにいたんです。二人で手をつないで……」
茶太郎の胸に、冷たい味が広がった。
「探さなきゃ」
「待て」
弥七が地面へ膝をつく。
泥には大小の足跡が重なり、消火の水で崩れていた。
「二人だけやない。少なくとも四人や。火を避けて東へ走っとる」
ユキは子どもたちの荷物を確かめた。
「食べ物を持ってへん。遠くへ行くつもりやなかったんや」
ゆかりも糸を探したが、首を振った。
「避難してきた人たちの糸が絡みすぎてる。どれがお千代ちゃんの糸か分からない……」
茶太郎たちは宇治神社へ続く道を急いだ。
しかし途中で、道は二つに分かれていた。
一方は山道。もう一方は宇治川へ下る細道だ。
「どっち……?」
そのとき、白い影が茂みから跳び出した。
銀白の毛を持つ、小さな兎だった。
兎は数歩進むと立ち止まり、茶太郎たちを振り返る。
「ついてこいって言ってる……?」
兎は鼻を鳴らした。
「べ、別に、お前を案内するわけではない。迷った子を放っておけぬだけじゃ」
茶太郎は目を丸くした。
「しゃべった……」
「そこに驚くな!」
兎は耳を赤くし、山道へ駆け出した。
少し進んでは振り返り、全員が来ているか確かめる。
最後尾のユキが遅れると、兎は足を止めた。
「一人も置いていかぬ。それが帰り道というものじゃ」
やがて、一行は崩れかけた炭焼き小屋へたどり着いた。
中から、小さな泣き声が聞こえる。
「お千代ちゃん!」
茶太郎が呼ぶと、戸の隙間から少女が顔を出した。
「茶太郎……?」
小屋には、お千代と吉松、それに二人の幼子が身を寄せていた。
火に追われ、煙を避けて逃げ込んだのだ。
ユキはすぐに子どもたちのそばへ座った。
「もう大丈夫。怖かったな」
吉松が震えながら尋ねる。
「帰れる……?」
兎が来た道を見つめた。
だが、風向きが変わり、煙が山道へ流れ込んでいる。
「同じ道は使えぬ」
お千代の顔が青ざめる。
「帰れないの……?」
「帰り道とは、来た道を戻ることだけではない」
兎は凛として告げた。
「無事に皆のもとへ着く道が、帰り道じゃ」
弥七は周囲の斜面を調べ、折れた枝と湿った土を確かめた。
「北へ回れば沢がある。水沿いなら煙を避けられる。ただし、子どもの足には急や」
ユキは背を向けてしゃがむ。
「一番小さい子は、うちが背負う」
弥七も吉松を抱き上げた。
その拍子に、懐の密書が地面へ落ちた。
そこには避難者の人数だけでなく、炊き出し場、蔵、宇治へ入る脇道まで記されていた。
ユキが拾い上げる。
「これが敵に渡ったら、逃げてきた人らは丸裸や」
弥七は黙って密書を受け取った。
そして二つに裂き、沢の水へ浸した。
墨が滲み、文字が消えていく。
「報せるべきは、攻め道やない」
弥七は吉松を抱き直した。
「負傷者と、必要な薬の数や」
兎は一度だけ頷き、沢沿いの道を進んだ。
日が落ちる前に、全員が仮小屋へ戻った。
母親に抱きしめられたお千代たちを見て、兎はそっと立ち去ろうとする。
「待って」
茶太郎が追いかけた。
「ありがとう。何度も振り返って、ぼくらを待ってくれたね」
「当然のことをしたまでじゃ」
「君、すごく優しいね」
兎の耳が、みるみる赤くなった。
「や、優しくなどない! わらわはただ、帰れぬ者が嫌いなだけじゃ!」
茶太郎は笑った。
「じゃあ、ミカエって呼んでもいい? 見返って、みんなを帰してくれたから」
白兎はそっぽを向いた。
「……勝手に呼べばよい」
それでも尻尾は、嬉しそうに揺れていた。
その夕暮れ——
宇治川の上空を、一羽の青灰色の鷺が音もなく旋回していた。
金色の瞳は、煙の向こうにある山道を見つめている。
「帰ってきたのは四人。だが——」
蒼鷺は翼を傾けた。
「山へ入った足跡は、五人分ある」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は宇治に伝わる「見返り兎」を下敷きに、帰り道の意味を描きました。
帰るとは、来た道をそのまま戻ることではありません。危険を避け、無事に待つ人のもとへ着く道を選ぶことです。
白兎は何度も振り返り、子どもたちの歩みに合わせて待ちました。その姿から、茶太郎は「ミカエ」という呼び名を贈っています。
ただし、戻った子どもは四人。山へ入った足跡は五人分ありました。
次回、蒼鷺の遠見が“数の外”へ落ちた避難者を探します。




