第31話 「影心迷宮・第四階層:戻らぬ時と、命を継ぐ茶粥」
――元には戻らない。それでも、受け渡すことはできる――
第三階層から戻った翌朝。
秘密基地の中央には、消えかけた灯明と、冷えた一椀の飯が置かれていた。
第四の扉に描かれていたものと同じだった。
茶太郎が灯明へ手を伸ばす。
火は、今にも消えそうに揺れている。
「もう一回、火をつけたらいいのかな」
マキトが首を横に振った。
「同じ火は戻らぬ。新しく灯すことはできても、消えた火そのものではない」
「じゃあ、ごはんを温めたら?」
「温かくはなる。でも、炊く前の米には戻らないよ」
志乃が答えた。
炊かれた米。
切られた野菜。
燃えて灰になった薪。
料理には、元の姿へ戻らない変化がいくつもある。
鳳凰の声が聞こえた。
『第四の結び目は、”死への恐れ”』
『過ぎた時を元へ戻そうとする心が、同じ記憶を繰り返しています。戻らない変化を受け入れ、それでも次へ渡せる料理を作りなさい』
「次へ渡す料理……」
茶太郎は、自分の手を見つめた。
「食べ物も、みんな命だったんだよね」
米も、蕪も、椎茸も、生きていた。
動物だけが命なのではない。
けれど、動物を食べることには、また違う重さがある。
その日、巨椋池の漁師が、商屋へ一匹の鰻を持ってきた。
「仕掛けに入っとったやつや。傷が深うて、池へ戻しても生きられへん」
細長い身体は、まだわずかに動いていた。
茶太郎は、鰻を見つめる。
「これを料理にしたら……死んじゃう?」
「生かしたまま料理はできん」
宗次は、曖昧に答えなかった。
「食べるいうんは、命を受け取ることや」
「かわいそうだから、逃がしたら?」
「傷が深い。このままでは、池の底で弱って死ぬやろう」
茶太郎は、すぐには答えられなかった。
鰻がかわいそうだと思う。
それでも、自分はこれまで魚の出汁も、鳥の肉も食べてきた。
「食べるなら……残したらだめだね」
「ああ。食べられるところは、無駄にせん」
鰻の始末と下処理は、漁師と宗次が行った。
茶太郎たち子どもは、生の鰻には触れない。
志乃は身を十分に火へ通し、味噌溜りと麦芽水飴を薄く塗って炙った。
現代の蒲焼きとは違う、素朴な《鰻の照り炙り》である。
「第四の料理は、茶粥にする」
茶太郎は決めた。
「お米が水を吸って、元とは違う形になる料理。そこへ鰻を少しずつ分ける」
名前は《命継ぎの茶粥》。
使うものは、
・米
・炒った茶の茎
・水
・少量の塩
・鰻の照り炙り
・香りづけの山椒
鰻を豪華に飾るのではない。
一匹の身を細かくほぐし、何人もの椀へ分ける。
一つの命が、多くの者を支える料理だった。
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翌朝。
茶太郎たちは、材料を持って影心の迷宮へ入った。
第三階層の堂には、温かい鍋の香りだけが残っている。
第四の扉へ近づくと、消えかけた灯明が一度だけ揺れた。
扉の先には、色のない庭が広がっていた。
一滴の水が、軒先から落ちる。
地面へ届いた瞬間——水滴は軒先へ戻った。
そして再び落ちる。
ぽたり。
元へ戻る。
ぽたり。
また戻る。
「……時間が止まってる?」
レオが尋ねる。
ナギは水滴を見つめ、首を横に振った。
「水、動いてる。でも……同じ動きを、何度もさせられてる」
『時間そのものが止まったのではない』
茶丸が告げる。
『過ぎた時を認められぬ心が、同じ記憶を繰り返しているのだ』
庭の中央に、白い骨の影が座っていた。
影骸は、両手で古い灯明を抱えている。
「消すな……」
灯明の火は、ほとんど燃えていない。
「この火が消えれば、私も消える。名も、記憶も、築いたものも……すべてなくなる」
茶太郎は影骸の前へ座った。
「その火、もう苦しそうだよ」
「新しい油を入れれば、違う火になる。これは、あの日の火でなければならぬ」
「どうして?」
「あの日へ戻れるかもしれぬ」
影骸の背後に、同じ場面が何度も浮かんだ。
人が生まれ、成長し、老い、倒れる。
建物が造られ、栄え、朽ちていく。
花が咲き、散り、また最初の蕾へ戻される。
「終わりを認めなければ、失わずに済む」
「でも、花がずっと戻ってたら、実ができないよ」
影骸が茶太郎を見る。
「終わりを受け入れよと申すか。幼いそなたに、死の何が分かる」
「分からない」
茶太郎は正直に答えた。
「ぼくも、死ぬのは怖いよ」
前世で命を失った記憶が、胸の奥に残っている。
雨。
黒猫。
強い光。
戻れなかった時間。
「死んだあと、どうなるかも分からない。でも……戻らないものがあるのは知ってる」
影骸は灯明を強く抱きしめた。
「ならば、料理に何ができる」
「元には戻せない」
茶太郎は鍋を置いた。
「でも、受け取ったものを次へ渡せる」
マキトが新しい火種を鍋の下へ置く。
古い灯明から火を奪うのではない。
秘密基地から守ってきた、別の火だった。
ナギが選んだ水を注ぐ。
茶の茎を布へ包み、湯の中で煮出してから取り出す。
茶色く色づいた湯へ、洗った米を加えた。
米は水を吸い、少しずつ膨らんでいく。
「乾いた米には、もう戻らない」
茶太郎は鍋を混ぜる。
「でも、お粥になったら、食べられる」
影骸は答えない。
米が柔らかくほどけるまで、茶太郎たちは待った。
急いでも、時間を飛ばしても、料理は完成しない。
やがて、茶の香りが庭へ広がる。
茶太郎は照り炙りにした鰻を、細かくほぐした。
「その魚は死んだ」
影骸が言う。
「うん」
「死んだ命を使い、生を語るのか」
「生き返ったとは言わないよ」
茶太郎は鰻を一つまみずつ、皆の椀へ載せた。
「この鰻は、もう池へ戻れない。だから、もらった命を残さず食べる」
レオの椀。
ナギの椀。
ゆかり、ウリハ、マキトの椀。
最後に、影骸の椀。
「食べたら、ぼくたちが動く力になる。それが、次へ渡るってことだと思う」
影骸は、自分の椀を見つめた。
「私が生きたことも……誰かへ渡るのか」
「全部は残らないと思う」
「全部は……」
「名前を忘れられることもある。建物がなくなることもある。でも、教えたことや、誰かにしてあげたことが、別の形で残るかもしれない」
「永遠ではないのだな」
「うん。ずっと同じ形では残らないよ」
影骸は、震える手で茶粥を口へ運んだ。
柔らかな米。
茶の香り。
鰻の脂と、わずかな甘み。
最後に山椒の香りが残る。
「……消えていく味だ」
一口ごとに、椀の中身は減っていく。
「だが、身体の内側へ入ってくる」
影骸がもう一口食べる。
白い骨の表面に、淡い色が戻り始めた。
「形を失いながら、別のものへ変わる……」
茶太郎はうなずいた。
「料理も、命も、ずっと同じところにはいないんだと思う」
影骸は、抱えていた古い灯明を地面へ置いた。
火が静かに消える。
その瞬間、何度も落ち直していた水滴が、初めて地面へ染み込んだ。
次の水滴が落ちる。
今度は戻らない。
止まっていたように見えた庭へ、風が吹き始める。
枯れた花が散り、その下から新しい芽が現れた。
「戻らぬことを、私は終わりとしか思えなかった」
影骸の姿が、穏やかな人影へ変わっていく。
「だが、戻らぬからこそ、次が生まれるのだな」
「怖くなくなった?」
茶太郎が尋ねる。
「いや。死は、まだ怖い」
影は正直に答えた。
「それでも、怖れたまま次へ渡すことはできる。今は、そう思える」
鳳凰の声が庭へ響く。
『第四の結び目はほどけました』
『死への恐れは、消すものではありません。戻らぬ時を受け入れ、受け取ったものを次へ手渡すことで、恐れとともに歩けるのです』
影は光となり、消えた灯明から立つ細い煙へ溶けていった。
庭の奥に、第五の扉が現れる。
扉には、何も描かれていない。
取っ手も、鍵穴もない。
ただ黒い鏡のような表面に、茶太郎自身の姿だけが映っている。
「次は……ぼく?」
鏡の中の茶太郎は、首を横に振った。
その口が、声もなく動く。
お前には、何もない。
茶太郎の胸に、冷たい味が広がった。
鳳凰の声が聞こえる。
『第五の結び目は、自己否定』
『材料も、お題も、こちらからは与えません。自分には何もないと思う心へ、何を差し出すのか。秘密基地へ戻り、見つけなさい』
扉は閉じたまま動かない。
茶丸が茶太郎の足へ身体を寄せた。
『一人で答えを出そうとするな』
「うん……帰ろう」
茶太郎は空になった椀を片づけた。
庭には、新しい灯明が一つ灯っている。
それは古い火と同じものではない。
けれど、次の誰かを照らすには十分な明るさだった。




